ただいま


 ただいま。

 たった四文字のその短い言葉を口にするのは、いつぶりだろうか?
 早瀬ヒロは自分の部屋のドアの前まで来て、足を止めた。

 もう右手には鍵を持っていて、これを鍵穴に差し込んで回せば、当然ドアが開く。そしたら靴を脱いで部屋に上がって、堅苦しいネクタイを外して……
 何回も繰り返してきたことをまたなぞるだけ。部屋に自分以外の人間がいて、自分の帰りを待っているのも、別に珍しいことでもない。
 けれども今日、ひとつ決定的に違うのは待っている人物が恋しい人だということだ。

 ただいま。
 その言葉が浮かんだのは、二階の部屋まで上がる階段を昇っている時だった。
 部屋で待っている人のことを考え、緩む頬を引き締めようと努力しながら、一段飛ばしでコンクリートの階段を昇っていると、ふいにその言葉が浮かんだのだ。

 もう何年も、口にしていない言葉。
 おかえり、そう言われたことは何度かあるが、その度自分は「うん」とか「おう」とか、曖昧な返事しかしなかったな、と気づいた。
 なぜだろう?

 換気扇から漏れてくるのか、カレーのいい匂いが漂ってくる。これは、うちからだろうか?
 鍵を差し込み右に回す。カチャリと施錠が外れ、ドアを引くといい匂いが強くなり、やはりカレーの匂いはうちのものだとわかる。
 靴を脱いでいると足音が近づいて、ヒロは顔を上げた。

「おかえり」
 持参してきたのか、ベージュのシンプルなエプロンをつけた柏木直帆が、にっこりと微笑んで立っている。
「ただいま」
 言った途端、じわっと胸が熱くなって、勝手に照れ笑いが浮かぶ。

「カレー作ってみたんだ」
「うん、いい匂いしてる」
 嬉しそうな笑顔。
「直帆」
 ヒロは上がり口に上がって、直帆の身体にそっと抱きついた。

「ただいま」
「どうしたの?」
「うん、なんか、嬉しくって」
 誰かが待っていてくれることが、こんなに嬉しいものだと知らなかった。
 直帆だから、いとしい人だから、こんなにも胸がどきどきして、泣きそうになるほど、感激するのだろう。
 遠慮がちに寄り添うヒロの背に、直帆が腕を回した。

「俺も嬉しい。ヒロが、帰ってきてくれた。俺の家じゃないのに、変かな?」
「変じゃないよ」
 ぎゅっと抱かれて、瞼の裏が熱くなる。
「直帆の元に帰ってきたんだから」
 胸に顔を押しつけて、小さな声でそう言うと、さらに強く抱きしめられる。

 人は家に帰るのではなくて、そこで待っている人の元に帰るものなのかもしれない。
 ヒロは長い間、誰の元へも帰らずにいた。ただ、会って、抱き合って、さよならするだけの存在。
 だけど、直帆は違う。
 だって、彼はずっと一緒にいてくれる。

 一緒に生きていく存在。
 ずっと、ずっと、この人の元に帰りたい。
 ずっと、ずっと、この人を迎えたい。

 途方もない願いが胸を焦がす。
 喪失への恐怖が心を凍らせる。

「直帆」
 名前を呼ぶと、ゆっくりと身体を離して優しい顔が覗き込んでくる。
「大丈夫だよ、ずっと一緒にいるよ」
「え――? なんで、わかったの?」
 ヒロは何も口にはしていないはずなのに。
 心を読んだみたいに、恋人は優しい言葉をくれた。

「同じこと考えてるような気がしたから」
「同じこと?」
 問えば、直帆は柔らかに笑む。
「うん。ずっと、一緒にいたいなって」
「直帆も、そう思ってた?」
「うん。思ってた。思ってたし、きっと一緒にいれるとも思うよ」
「どうして?」 
「だって、ふたりともがずっと一緒にいたいって思ってたら、自然とそうなるじゃない? 俺もヒロも互いに求めてたら、一緒にいれるに決まってるよ」

 直帆は言いながらヒロの髪を撫で、言い終わると、つむじの辺りにくちづけを落とした。それから、
「だから、大丈夫だよ」
 そう言って、自信に満ちた顔で頷く。

 不思議だな。
 直帆の言葉はどうしてこんなに、素直に心に沁みていくのだろう?
 どうして手放しで信じたくなるのだろう?
 どうしてこんなにも、胸が苦しくなるのだろう?

「直帆」
「ん?」
 微笑みながら小首を傾げる恋人に、ヒロは背伸びしてキスをした。
「大好き」
「うん、俺も」

 すべては恋のせいだ。
 好きだから、好きな人の言葉だから素直に心に沁みて、信じたくなって、胸が苦しくなる。
 大好き、もう一度そう言って、再び唇を重ねる。
 部屋のなかは、カレーのいい匂いが漂って、直帆がつけたままのテレビが、梅雨入りのニュースを伝えている。

 梅雨が明けて夏が来て、秋が過ぎて冬になって、またふたりが出逢った季節が巡ってきても、ずっと一緒にいれますように。
 ヒロは心のなかで、誰にともなくこっそり祈った


 おわり



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