雨の日のこと 「お話だけでも、聞いていただけませんか?」 ざわざわと、多くの人が行き交う駅の構内で、柏木直帆は捉まっていた。 「ですから、そういうの困ります」 もう何度目になるのか、直帆は必死になってそう言った。 最初に声を掛けられたのは五分ほど前だっただろうか? ノーネクタイだが一応スーツを着ていて、きっちりした印象のある眼鏡の男は、五分間ずっとこんな調子で、話を聞いてくれだの、君のような人が埋もれてるなんておかしいだの、絶対に後悔はさせないだの、挙句の果てには、間違いなくスターにしてみせるだの、直帆にとっては理解不能な言葉を並べ続けている。 「ゆっくり、きちんと話をしますから。とりあえずカフェにでも入って話しましょう」 眼鏡男の持久力は素晴らしく、こういう人に多少なりとも慣れている直帆も困り果てていた。 「だから、知らない人についてっちゃ駄目だって言われてるんです」 「それならきちんと名刺を――」 「名刺なんて誰でも簡単に作れるから、信用しちゃ駄目だって言われてるんです」 ほとほとうんざりしていた直帆はつい大声になり、眼鏡男はびっくりして黙り、周囲を歩いていた人たちは何事かとこちらをちらちら窺う。 「と、とにかく困ります。俺は詐欺なんかには引っかかりませんから、諦めてください」 「いや、だから詐欺じゃないんだってば」 こんなにしつこい男は初めてだ。 『いいか、直帆。世の中は決してお前のように純粋にはできていない。道端には人を騙して儲けようとしている輩が嫌と言うほどいる。そんな奴らにひっかかったりしたら駄目だぞ。いつでも毅然としておけ。いいな?』 大学入学を機に上京した時に、親友に言われた言葉を頭のなかで復唱する。 「だからさっきから――」 「お願いしますよー。僕、今月失敗したら後がないんですよ」 「え……?」 「家では妻と子がお腹を空かせて待ってるんです。あなたさえ、うんと言ってくれれば僕は助かるんです……」 そんな―― 直帆は目の前の男を改めてじっと見てみた。よく見てみれば、顔が少しやつれているかも知れない。そうなってくると、スーツもちょっとくたびれているように思えてきた。 そんな同情的な目線を敏感に感じ取ったらしい男は、ゴホンゴホンと咳き込んだ。 「あ、あの……」 その、一般的に見ればわざとらしい、直帆から見れば痛々しい姿を見て、不憫になった直帆は話だけでも、と口を開きかけたが、頭のなかで親友の声がリフレインして、どうしていいかわからなくなった。 「どうしても駄目ですか? 本当に悪い話ではないんです!」 じりっとにじり寄られ、困り果てた直帆の背後から突如声が聞こえた。 「この人、そういう世界絶対向いてないと思いますよ」 振り向くと、そこには笑顔の早瀬ヒロが立っていた。 「あ、ヒロ……」 眼鏡男はきょとんとしていたが、すぐに気を取り直したように営業トークを再開した。 「ああ、君もいい顔してますねー。なんだったらふたり一緒に――」 「悪いけど、興味ないんだよねー。だから諦めてください。お願いします」 ヒロは慣れた様子で、笑顔のままきっぱり断った。 「っつうことで、早く帰って晩飯食いたいし、さよーなら」 ヒロは直帆の腕を引っ張って、駅の出口に向かって歩き出した。呆気にとられたのか男はもう追ってこない。 「わざわざ迎えに来てくれてたの?」 まだ男を気にしてちらちら後ろを窺う直帆とは対照的に、ヒロはすっかりもう忘れたらしい。 「うん。雨、降ってたから」 夕方になって突然雨が降り出した。天気予報では今日いっぱいは持ちそうだと言っていたのに。 「傘、持ってってなかったでしょ?」 そう言って、得意気に持ってきた傘を顔の辺りに持ち上げる。が、ヒロはなんだか変な顔をした。 「なあに?」 ここから見える構外はまだ雨模様。タクシー待ちは行列で、しかたなく走っていく人の背中もちらほら見える。 せっかく濡れないようにと持ってきたのに、何がおかしいんだろう? 「ねえ、直帆」 「ん?」 ヒロが足を止めたので、直帆も止まる。 「傘」 「え?」 傘がどうしたのだろう? 首を捻って手にしたそれをまじまじ見つめていると、ヒロが小さく笑った。 「それしか持ってきてないんでしょ?」 にっこり笑顔で顔を覗き込まれ、ようやく自分の失態に気づいた。 雨のなか、わざわざ迎えに来たはいいが、持ってきたのは差して来た傘一本。 「ごめん。なんか俺、格好悪いね……」 情けなくなって俯くと、ヒロが慌てて、そんなことないよと繕う。 「そりゃ、ちょっと天然なとこはあるけど――」 「さっきだって、ヒロに助けてもらっちゃったし……」 こんなんじゃ、ヒロに頼られる存在になるのは無理だ。 ヒロは子どもじゃないし、女の子でもないけど、やっぱり頼ってほしいし、勝手かもしれないけど、守ってあげたいと思っているのに、いつも反対に助けられてしまう。 どうしてこんなに、しっかりしてないんだろう…… 「なーお!」 落ち込んだ直帆の肩を、ヒロが力強く叩いた。 「いいじゃん! 相合傘して帰ろ?」 言って、ヒロは直帆の手から傘を奪う。さっきみたいに腕を強引に引かれ、しかたなくついていく。 「この傘結構広いし大丈夫だよ」 元気づけようとしているのがわかるから、いつまでもつまらないことで落ち込んでいてはいけない。微笑むと、にっこり笑顔が返ってくる。 ヒロが傘を開いて、並んで雨のなかに足を踏み出した。けれど、すぐにある不自然さに気づき、ふたりは再び駅のなかに避難した。 「傘、俺が持つよ」 直帆がちょっと笑いそうになりながら言うと、ヒロの頬が膨れた。 相合傘の傘は、身長の低いほうが持つものじゃないということを、初めて知った。直帆は親友の傘に入れてもらったり、逆に親友を自分の傘に入れてあげたことがあるが、彼とは身長がそんなに変わらないから、こういうことには気づかなかった。 十センチも差があると、背の低いほうが持って歩くとどうしても頭がつかえそうになる。 「大丈夫だよ、こうやって上にあげて持てば」 「そんなの、腕が疲れるよ。ね、貸して」 手を差し出すと、まだ拗ねた顔のヒロが渋々開いたままだった傘を渡してくる。 再び並んで歩き出す。今度はとても自然だ。さっきの窮屈さを思い出すと、また笑いそうになる。 「言っとくけど、俺が小さいんじゃなくて、直帆が平均よりでかいってだけなんだからね」 「そうだね」 「もう、ホントにわかってる?」 まだ機嫌は直らないらしい。 恋人の前で格好つけたいのは、直帆だけではないのだ。そして、格好つけたいと思えば思うほど、失敗してしまうのもまた同じ。 そう思うと隣にいる彼がとてもいとおしくて、直帆は知らずまた頬が緩むのを感じた。 雨のなか身を寄せ合って歩くのは悪くない。 傘を忘れてきてよかったかもしれないな。 濡れた地面を歩きながら、直帆はそんな調子のいいことを考えていた。 おわり |