雨の日曜日 雨粒が窓を叩く音が、やけに耳に響く。薄暗い部屋のベッドの上、朋聡は知らず胸に手を当てていた。 首から垂れる細いチェーンの先、もうその存在さえ忘れている小さな十字架に触れると、不思議と和らいだ気持ちになる。 思い出してみるまでもなく、今日は日曜日。家族でミサに出かける曜日だ。時刻は午前六時を過ぎたところ。家を出るまでにはまだ随分余裕がある。 手を伸ばしてカーテンを静かに引っ張る。空は厚い鉛色の雲が覆い、雨はしばらくやみそうにない。 「大丈夫かな……」 無意識に呟いて、少し苦笑した。 心配なら、電話をかければいい。 ただそれだけのことだとわかっているのに、すぐ傍にある携帯に手を伸ばせない。 これが月曜日や火曜日なら、なんの躊躇いもない。いつもより早く家を出て、急いで彼を迎えに行けばいい。 土曜日だったら、馴染みのホテルに寄って彼の好物を土産に、部屋に上がり込めばいい。 今日が日曜日でなければ―― 朋聡はもともと信心深いわけではない。一応クリスチャンではあるが、決して熱心ではない。むしろ、神様にはいつも背いていると、自分では思っている。それでも毎週ミサに行くことを欠かさないのは、そのほとんどが家族愛によるものだ。 ミサに行くというより、家族に会いに行く日。彼にとっての日曜日は、いわば家族サービスデーなのだ。 その家族愛にしたって、天秤にかければ彼より重いわけではない。そもそも彼より重いものなど、この世界にあるとは思えない。この世界そのものさえ、朋聡にとってみれば、彼ほどには重要じゃないのだ。 なのに電話をかけられないのは、彼を愛しているから故。 彼は、家族を大切にする自分を好きでいてくれている。 直接聞いたわけではない。彼がそんなことを言うはずがない。だけど、わかる。 なんどか家族の話をした。その度、彼は眩しいものを見るような顔をした。それはどこか寂しそうで、けれどとても温かい表情。 「理想的……だよな……」 薫という人間は、どこまでも家族に恵まれない。生まれた時から、彼が会社の駒として育てられたことは、薫の言葉からも、彼の父親の言葉からも容易に窺い知れる。 その上、新しい家族も築く前に失った。 家族の愛を知らずに育った彼にとって、愛に溢れた家庭というのは無条件にいとおしいものだろう。 もし、朋聡の家族に少しでも亀裂ができれば彼は気が気ではなく、我が身のように案じるだろうことは、ずっと傍にいる朋聡にとっては、想像に難くない。 実際、以前ちょっと両親が喧嘩をしたと、朋聡にしてみれば笑い話として話したことに、彼は思いのほかに動揺してみせた。 愛を欲しているがゆえ、自分と関係のないところの愛にさえ、彼は敏感。痛々しいほどに清らかな心は、涙が出るほど美しい。 だからこそ、朋聡は家族を放り出して彼に会いにいけない。自分のせいで家族をなおざりにしたなどと考えたら、彼が胸を痛めないはずがない。 傷つけたくない。一ミリたりとも、彼に傷をつけたくない。 声を聞いたら、会いに行きたくなる。強がって、大丈夫だと言うだろう彼を思うと、胸が絞めつけられるようだ。 雨の音に眉根を寄せる姿が目に浮かぶ。 「ダメだな……」 口元に苦い笑みが浮かんだ。 これでは、逆だ。 雨を嫌悪しているのは彼ではなく、今や自分のほうなのではないか? 会いたいのは自分のほうで、求めてるのも自分のほう。 ようやくベッドから身体を起こし、朋聡は携帯を開いた。 窓の外は雨。 そんなことは、カーテンを開けなくてもわかる。微かな雨音のせいじゃない。さっきからずっと続いている、不愉快な頭痛のせいだ。 まだ早朝。まして日曜日だ。本来なら目を覚ます必要などなく、健やかな眠りのなかにあるはずなのに。 薫の眉間には、深い皺がくっきりと刻まれている。 目が覚めているからといってベッドから出る気にもなれず、もう数十分もの間、こうしてシーツを頭から被り、胎児のように身体を丸めている。 嫌な記憶ばかりが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。 嫌なことはどうしてか、雨の日に限って起こる。 まだ子どもだった頃、薫は不思議でしかたがなかった。なぜ雨の日に限って、父や母は自分に辛く当たるのか、と。 大人になって、だいたいわかった。おそらく、父も自分と同じなのだ。きっと父親の頭にも、雨の日には嫌な記憶が呼び起こされるのだろう。そうすると、必然的に母も機嫌を悪くする。だから、雨の日にはろくなことが起こらなかった。 しかたがない。今さら何を思ってもしかたがない。両親にも都合がある。そうやっていろいろなことを諦め続けて、自分は今ここにいるのだ。 ただ気に入らないのは、自分自身のこの性質だ。 雨が降るたびに気が滅入り、体調まで悪くなる。自分自身こそが、薫には耐えられない屈辱だった。 自然とため息がこぼれる。 脳裏に浮かぶ男の顔。消し去れない残像に、薫は顔を歪めた。 これが月曜日や火曜日なら問題ない。なぜなら仕事という責務がある。薫にとって仕事は、生きるということとイコールで結ばれる。仕事こそが存在意義だから、それさえあれば気を張っていられる。 土曜日だったら、それはそれで…… 心に浮かんだくだらない考えを急いで打ち消して、薫はさらにシーツを深く被る。 なぜ、よりによって日曜日に雨が降るのだろう、そう思ってしまう自分が嫌だ。 いつからこんなに弱くなった? いつからこんなに女々しくなった? いつだって自分は、ひとりで立っていたはずだった。それでも決して足元は揺るがず、誰から見ても順風満帆。弱みなど、ないはずだった。 枕元に無造作に置かれている携帯電話。小さなそれが、気になってしかたがない。あの単調な電子音を、愚かにも期待している。 頭が痛い。 気分が悪い。 どうしようもなく、胸が寒い。 薫は軽く唇を噛んで、携帯から目を逸らした。と、その時――短い音が聞こえた。 慌てて手を伸ばしそうになる自分を叱咤して、薫はおずおずと、もう音のやんだ携帯を手に取る。 メールの着信を知らせるランプが点滅している。 途端に心許ない気持ちになって、急いでメールを開封した。 『薫さん、雨だね。きっと神さまが、ヤキモチ妬いて降らせてるんだわ。もう! 叱りつけてこなくっちゃ! てるてる坊主いっぱい作ってあげるから、安心してね』 女装した口調の文面。目で読んでいると、声まで聞こえてきそうだ。 あまりにもあいつらしい台詞だと思うとおかしく、口元が緩んだ。けれど、胸の奥には冷たさが募る。複雑な感情に、眉間の皺は一層深くなる。 やりきれない切なさに、気づかぬフリをするのが辛い。 しかし、ふと、不自然なスペースに気づく。 不覚にも高鳴る鼓動を止められなかった。指は勝手に画面をスクロールさせて、眸は必死に文章を追った。 『今すぐ会いに行きたいけど、そうすると、きっとあなたは怒るから、俺は神さまに挨拶を済ませて、家族にたっぷり愛情を注いできます。その間も、きっとずっとあなたのことを考えてしまうけど、とにかく俺のするべきことをしてきます。全部終わったら、会いに行くから……待っていて、薫』 瞼の奥に熱を感じて、薫は焦って携帯を閉じた。 いつからこんな風になってしまったのか? あんな言葉に気持ちを揺さぶられる自分を、薫は受け入れられない。でも、それでも、起きた時から感じていた頭痛が、幾分ましになっていることは認めざるを得ない。 まるで自分がふたりいるかのように当惑し、混乱している。 こうなったら、出口がない。 薫は意を決して、再び携帯を開く。着信履歴を呼び出して、通話ボタンを押した。 何を言うかなんてわからない。愛を囁くなんていう選択肢は初めからないし、メールの感想なんてものも、述べる気はない。つまるところ話などなく、なぜ電話をかけたのか半分は自分でもわからない。 でも、残りの半分は…… 『もしもし、薫さん?』 意外そうな声。 「ああ」 自分の声はいつもとほとんど変らない。 『どうしました?』 少しからかうような、普段どおりの声になった。 ほっとした。 心の寒さがようやく薄れた。 「別に……」 特に何か言うべきだとは思わなかった。きっと相手はわかっているはずだ。 『……声が聞きたかった?』 肯定も否定もしなかった。 電話の向こうで微笑む気配があった。 別に、それでいいと思った。 雨がやんだのか、雨音は聞こえなくなっていた。午後からは晴れるのかもしれない。 そう思った瞬間、受話口からも同じ感想が聞こえてきた。 |