Scene 1


 夕暮れ時を迎え、辺りは薄く赤色に染められている。春から初夏へ変わろうとしている四月の終わり。
早瀬ヒロはひとり、静かな住宅街でうろうろしていた。
 携帯で時間を確認しながら、電信柱の影に隠れてみたり、曲がり角に潜んでみたり。
 仕事帰りのスーツ姿も手伝って、怪しいことこの上ない。

 ストーカーみたいだな……

 という感想は、本人のなかにも当然あったが、ヒロにはこうやって、下手な探偵みたいな真似をしなくてはいけない理由があった。
 事の発端は昨日。妹の家に遊びに行った時のことだった。

『最近、理の様子が変なの』

 いつものんきな妹にしては、珍しく深刻そうな顔だった。
 シスコン気味のヒロは存分に心配して、話を促した。

 詳しい話はこうだ。妹夫婦の次男、理(六歳)の帰りが、ここ最近ずっと遅いのだという。
 遅いと言っても、夕飯までには帰ってくるらしいが、なにせまだ小学校の低学年だし、  今までは必ず真っ直ぐ家に帰ってきていたのだ。

 本人に聞くと、学校に残っているから心配ない、他の友だちも一緒だ、というらしいのだが、それも疑わしい。
 小学校一年生で居残りをさせられるというのも妙だし、だいたい理は優等生で、  成績だっていつも一番だと担任が誉めているのだ。
 それからもう一つ不可解なことがある。なぜか最近晩ご飯を残すようになったのだ。  これも真面目な理の性格からはおかしなことだった。
 いっそのこと担任の先生に聞いてみようか、と言う妹をヒロは制した。

 実は心当たりがあったのだ。
 それが、今目の前に建つマンションだ。
 六階建てのマンション。特に変わったところのない、シンプルなデザインの普通のマンション。
 ヒロは、このマンションから出てくる甥っ子を二回見かけていた。一度は声もかけた。  その時理は友だちの家だと言った。もちろん、ヒロもそれを信じた。今でも信じている。
 ここに住んでいるのは、理の好きな女の子なんじゃないか、とヒロは推測していた。

 自分にも覚えがある。幼い恋心を恥ずかしくて隠そうとするなんて、よくあることだ。  最近の子どもはませているし、充分ありえる。
 晩ご飯を残すのは、大方おやつか何かご馳走になってくるせいだろう。
 そんな簡単なことを母親が気づかないのも変な話だが、それほどに理という少年は信頼が厚いのだ。
 きっと母親に嘘をついたのなんて、初めてに違いない。

 とにかく、さっさと真相を突き止めて妹を安心させてやりたい。
 そんな兄心が、ヒロを探偵ごっこへと駆り立てた。

 やや肌寒い風が吹き始めた頃、見上げていたマンションの一室、五階の部屋のドアが開くのが見えた。
 なかから出てきた人物は確認できない。
 マンションのドアの前に大人の腰を超えるくらいの塀があり、 出てきた人物の姿は頭ぐらいしか見えない。けれどこれはつまり、理である可能性が高いということだ。
 マンションのエントランスに視線を貼り付けて待っていると、思ったとおりの結果が待っていた。
 甥っ子は、至極ご機嫌な様子でマンションを出て行った。
 理の姿が見えなくなったのを見届けてから、ヒロはマンションへ向かった。

 エレベーターに乗り込み、五のボタンを押す。
 ほどなくして五階につき、ヒロは廊下を突き進んだ。目当ての部屋は、一番奥。理が出てきた角部屋だった。
 チャイムを押す。少し緊張したが、もともと社交性の高い自覚がある。この時までは、まだ笑顔の練習をする余裕さえあった。
 この時までは――

 ドアを開けて顔を覗かせたのは、男性だった。父親にしてはやや若い。といっても、ヒロと同じ歳の妹だって子持ち。まして、理の兄の長男はもう七歳だ。とはいえ、妹は十八歳で出産したのだが……と、こんな風にごちゃごちゃ考える余裕は、実際にはなかった。
 実際のヒロは呆然と立ち尽くし、ぽかんと間抜け面を晒しているだけだった。
 心のなかだけで何この人!? すっげー、美形 !!と叫びながら。

 自慢じゃないが、ヒロだって顔には少なからず自信を持っていた。生まれてから今までモテていない時期というのはないし、芸能関係者と名乗る人物にスカウトされたことも、何度かある。
 でも、この目の前の男といったら……

 美形、なんて簡単な言葉では言い表せない。少なくとも、ヒロは見たこともないような男前。
 まず真っ先に見蕩れてしまうのが、茶色がかった眸だ。やや垂れ気味で甘さを含んでいて、優しさを湛えている。鼻筋は綺麗に真っ直ぐ、上品な鼻梁。唇は絶妙な大きさと薄さを持ち、控え目な朱の色をしている。
 美の極みである彫刻よりも、整った顔。
 目の前のこの人に、これ以上ないほどぴったりな四文字の言葉がヒロの頭に浮かぶ。

 壮絶美形――

「あの……?」
 あまりの美貌に心を持っていかれて、すっかり放心していたヒロは、その美声に我に返った。

「あ! すいません。あの、オレ早瀬ヒロって言います。その、理の伯父です」
「ああ! そうですか。あのでも、理君はもう帰っちゃいましたけど」
 不審そうな視線も、理の名前を出したら幾分和らいだ。まだ警戒心は解けないようだが、それも当然だ。突然見ず知らずの男が尋ねてきて、なんの疑いも抱かないほうがおかしい。
「いいんです。その、今日は……」
 あなたに会いに来たんです、と言えばいいのだろうか? 
 でも、それちょっと恥ずかしくない?
 っていうか、すごく怪しいよなそれ……

「えっと、その……」
 まごまごしていると、
「あの……どうぞ、上がってください」
 戸惑いながらも優しい笑顔で、美形は促した。ヒロもそれに素直に従い靴を脱ぐ。

 部屋のなかは明るい印象の家具で揃えられ、綺麗に片付いていた。通されたのはソファーのあるリビングで、ダイニングとキッチンが見通せる。どこも整頓されていて、爽やかだ。
 白や生成り色の装飾品が多く、カラフルなものといえば、窓際にあるガリレオ時計ぐらいだ。
 建築家という仕事上、ヒロは人の家を見るのが好きだ。内装や家具にも興味があり、ついキョロキョロしてしまう。
 あれ? でも、変だな……

「理君から、お聞きになったんですか?」
 言いながら、美形はヒロの前にカップを置いた。いい香りが漂っている。フレバーティーだ。
 甘いものは好きかと訊かれ、好きだと答えたからチョコレートまで出てきた。
「いや、その、えっと……」
 家の前で張り込んでた、なんて言えないし……
「まぁ、そんなところです。それよりその、お子さんは?」
 ヒロが聞くと、相手はきょとんとした。予想外の反応に、ヒロも困った。
「えっと……あの、つまり理のお友だちの……」
 あたふたしながら言葉を繋いでいると、美形は何度か瞬きをして、小首を傾げて考え込んだ。
 これは、ここには子どもはいないってことか? そうだよな。だって、子どもがいる家にしては片付きすぎている。

「僕は独身だから子どもはいないんですけど……理君からどうお聞きになってるんですか?」
 どうもこうも。何も聞いていないから答えられない。
 ヒロの無言をどう解釈したのか、美形は困り顔になった。
「ちゃんとお母さんやお父さんには話しているって、言ってたのにな……」
 ふたりして頭を捻る。どうも噛み合わない。

「あの、理はここへ何をしに来てるんですか?」
「何って……遊びに……お話をしたり、おやつを食べたり……」
 とりあえず、おやつの件はヒロの推理通りだったらしい。
 でも、決定的に外れていたのは、
「それはつまり、あなたに会いに来てるんですね?」
 遠慮がちに問うと、美形は頷いた。

 友だちと言っても、同年代だとは限らないということだ。だが、なぜ理は両親に内緒にしていたのだろう? それだけは、どう考えてもわからない。美形も同じことを思っているらしく、どうして嘘なんてついたんだろう? と少し悲しそうな顔をする。
「あ。えっと、その辺は俺から話を聞いときますよ」
 意識的に元気よく言うと、相手は困ったような笑顔で頷いた。それから、
「そう言えば僕、まだ名乗ってませんでしたね」
 言いながら、ローテーブルの引き出しを開け、名刺を取り出した。ヒロも慌てて背広の内ポケットを探る。
「柏木直帆です」
 名前を聞いて、名刺を取り出していたヒロの動きが止まる。差し出された白い紙に印刷された文字に目を走らせて、危うく叫びそうになった。

「か、柏木さんって、あの柏木さん!?」
 思わず声が裏返った。勢いよく尋ねられて柏木直帆はびっくりしていた。しかし、今はそんなこと構ってられなかった。
 柏木直帆と明朝体で書かれた名前の上には、写真家という文字が印刷されている。それはヒロにとって重大事だった。
「俺! あの――」
 なんて言ったらいいんだ?

 パニックだった。
 写真家の柏木直帆はヒロにとって憧れの存在。有り体に言えばファン。会ってみたい人ランキングではガウディの次の二位にランクインしている人物なのだ。
 部屋には彼の写真集があるし、壁には写真雑誌から切り抜いた記事が何枚も貼られている。
 ヒロの頭のなかは忙しく、様々なことが駆け巡っていた。
 うわ! 本物だよ! とか、つうか、すっげー美形だよ! とか、結構近所に住んでたんだー、とか。

「あの、僕のことご存知なんですか?」
「ご存知も何も、ファンです!」
「あ、それは、どうも……」
 恥らわないヒロの告白に、柏木直帆のほうが小さくなった。
「部屋にいっぱい飾ってるんです。柏木さんの写真。写真雑誌とかいつもチェックしてるし、広告とかも、いいなと思うと絶対柏木さんの写真で――」
「あの、えっと、すごく嬉しいんですけど、面と向かってそういうこと言われたことないから、恥ずかしいです……」
 見ると、柏木は顔を赤らめて蟀谷のあたりを指で掻いている。
 はっとなって、ヒロもだんだん頬の染まる思いがしてくる。あんまりはしゃいだ自分が恥ずかしい。照れ隠しに、手に持ったままだった名刺を差し出して、改めて名乗った。

「建築家さんですか。若いのに、もう事務所も構えてらっしゃるんですね」
 感心したように言われて、誇らしさと照れくささが湧いた。
 ヒロが独立したのはつい一ヶ月前だ。独立したといっても、まだ仕事が軌道に乗ったとは言えず不安定だが、やはり自分の城を築いたことは誇りだ。

「でも、柏木さんだって若いのに活躍してるじゃないですか」
 自分なんかより目の前の男のほうがずっとすごいと思う。名立たる賞も受賞しているし、いや、そんな経歴じゃなくとにもかくにも作品が素晴らしいのだ。
 尊敬できる相手を目の前にしている興奮がヒロをどきどきさせた。
 それにしても、
「こんなに素敵な方だったなんて知りませんでした。もしかして、元々はモデルをしてたりするんですか?」
 モデルから写真家へ転身したという話はいくつか聞いたことがあるし、こんなに綺麗な人が今までスカウトされないはずがない。ヒロとしてはかなり自信があった推論だったのだが、柏木のほうは小首を傾げてきょとんとした。
「なんですか、それ? お世辞とか言っていただかなくていいですよ」
 柏木は可笑しそうに笑った。
 これは謙遜してるのだろか?
 今度はヒロのほうが首を傾げた。
「いや、お世辞じゃないんですけど……」
「もういいですって。それより、早瀬さん。今度個展をするんですが、いらしてくれませんか?」
「個展ですか!?」
 思わぬ誘いにヒロの頭のなかは真っ白になった。

 個展をするなんて初耳だ。過去に二度ほど柏木の個展が開かれたのは知っているが、どちらもヒロが柏木の写真に出会う前のことだった。
「はい。久しぶりに開けることになって。よかったら――」
「はい! もちろんです!」
 勢い込んで答えると、柏木に笑われた。
「それじゃあ、住所教えてください。案内状を送りますから」



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