プレゼント 後編


 気まずくても、約束は破れない。

 結局、直帆は何が欲しいとも言わなかった。それでちょっと不穏な雰囲気のまま、ヒロは家路につくことになり、昨夜からずっと悶々とした気分が続いた。
 事務所で図面を描いていても、ふと集中力が途切れると昨日のことを思い出し、ふがいない気持ちになった。
 誕生日なんかでこんなに苛々するのは、生まれてはじめてだ。
 結局はいいプレゼントのひとつも考えつかない自分が悪い。だけど、欲しいものをひとつもあげてくれない直帆だって……

 繰り返し繰り返し、行き詰って開き直ってみても、心からその些細な悩みは消えない。
 そうこうしているうちに時間ばかりが過ぎて、ヒロは約束通り直帆の部屋の前にいた。
 ドアを開ける前からいい匂いがする。ヒロがいちばん好きなカレーの匂いだ。

 玄関に入ると、匂いは強くなる。一種類じゃない。何種類ものスパイスの香りが食欲を誘い、ヒロの腹の虫をなかせる。
 悩みがあってもおなかは減る。
 単純な反応が自分でおかしくなって小さく笑った。キッチンから出てきた直帆が、そんなヒロを見つけて、よかったー、とほっとした声をあげた。
「もしかしたら、来てくれないかと思った」
 ヒロは胸がちくりと痛むのを感じた。
 本気で心配していたらしいことは、その表情から明らかだ。申し訳なくなって、ヒロはことさら明るくにかっと笑って見せる。

「来ないわけないじゃん! っていうか、すっげー旨そう! これ全部食っていいの?」
 テーブルの上は料理が溢れんばかりに置かれている。三種類のカレーとナン、それにサラダやフルーツ、タンドリーチキンにシシカバブ。実に鮮やかだ。
「ヒロのために作ったんだから、食べていいに決まってるよ。でも、こんなに食べきれる?」
「食べれるよ!」
 ヒロが自信満々で言うと、直帆は心底嬉しそうに笑った。

 つまんないことだよな、うん。
 自分自身に言ってみる。
 誕生日は来年も来る。今年ちょっとうまくいかなかったからって、大したことじゃない。
 例え今年が記念すべき初めて一緒の誕生日でも、例え自分だけこんなに大切に祝われても……

 つべこべ考えて、じっとテーブルの上の多すぎる料理を見ていると、直帆が柔らかな声で名前を呼ぶ。
「ヒロ、ちょっとこっち来て」
 手招きされ、連れて行かれたのは仕事に使っている部屋だった。中央に置かれたテーブル。その上に載せられたものを見て、ヒロはすぐに、ここへ呼ばれた理由を察した。

「もしかしてさ、これプレゼントだったりする?」
 声が少し震えているのが自分でもわかった。
 見つめる先にあるのは、黒い額縁に収められた、海を写したモノクローム写真。一見しただけで、直帆が撮ったものだとわかるそれは、初めて見るものだった。
 サイズは全紙サイズで、六畳間で見ると、とても大きく見える。それだけにヒロの心はすごい吸引力でもって惹きつけられ、高揚した胸がどきどきした。

「そうだよ。プレゼント。ヒロのために撮ってきて、ヒロのために現像して、プリントしたものだよ」
 嬉しすぎて言葉も出ない。
 これ以上すごいプレゼントは他にない。絶対あるはずがない。一ヶ月と少し前までは、こんなこと絶対考えられないことだ。
 これがミュージカルなら、絶対踊るとこだよ! と感激のあまりそんなことを思った。それほどの大興奮。

 敬愛するプロの写真家が、ヒロだけのために作品を創ってくれたのだ。こんなにすごいプレゼントを貰える人間なんて、世界中探したってそうそういない。そうなると、世界中に自慢してやりたいという欲求がむくむく湧いてきて、頭のなかで、見せびらかす相手リストが組みあがる。
 最初は仲川だな。でも、あいつにこの芸術、この価値がわかるかなー。
 などとほくほくしているヒロの耳に、思いがけない言葉が吹き込まれる。

「でもね、まだあげられないんだ」
「え……?」
 急に冷や水を浴びせられ、意味もわからず、ただ心許ない気持ちになって、ヒロは縋るような目で直帆を見つめた。

「あげるのにはね、条件があるんだ」
「条件?」
「うん。条件」
 直帆は子どもが悪戯を考えついたような、無邪気な意地悪さで笑う。

「条件ってなんだよ?」
 つられて、ヒロもどんどん子どもっぽい口調になった。自然に唇が尖ったのを見て、直帆はいっそう愉しそうに笑った。
「からかわないでよ、直帆―」
 これじゃあ、お預けを食らわされ続ける犬だ。お手ぐらいならいくらでもする、とヒロはずれたことを思いながら、直帆の言葉を待った。

 すると、直帆は急に真面目な顔になって、笑わないでくれる? と訊いてくる。
「笑うような条件なの?」
 これは本格的にお手の気配。三回回ってわん、とかはちょっとやだなー、などと考えていると、

「これを飾るための家を造って欲しいんだ」
 と、いう言葉が聞こえてきた。

「イエ?」
「うん、家」
「誰の?」
「俺、たちの」
 きょとんとするヒロの目に映る直帆の頬が、少し赤らんだ。

「俺たちの、家……」
 言葉にしてから、思考が遅れてやってきて「俺たちの家」の意味を知らせてくる。
 じわりじわりと顔が熱くなる。
「ああ、家ね。家。うん、家。家、造るの俺の仕事だしね。いやまあ、造るっつっても、図面描くだけだけどね、うん」

 どうしよう……めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど……
 ふたりの家を造るということは、わざわざ確認しなくても同居するということで、同居は辞書を引くまでもなく、一緒に住むということで……

 ぐるぐるとメリーゴーランドみたいな思考は、面映い想像を巡らせる。
 だって同居っていうか、同棲だし……
 しばしの沈黙は、今まで体験したことのない息苦しさを与えてくる。

 どうしたものか。
 何か言わないといけないのだろうが、言葉を発するとさらに照れそうな気がするし、そもそも何を言えばいいかわからない。
 もうなんか、耳、熱い。

 ふたりの間に漂う、もぞもぞした空気のなか、ようやくといった感じで直帆が口を開いた。
「それを、俺への誕生日プレゼントにして、欲しいんだ」
「プレゼント?」
「うん。欲しいもの、昨日からずっと考えたら、それしか思いつかなくって。それだけ、すごく欲しいって、思ったから……」
「ああ、うん。造る。造るよ。えっと、家」
 プレゼントのことなど、もう気にしていないと思っていたのに……

 やっと口を開いたと思ったら、より恥ずかしくなるようなこと、言うんだもんな……
 身体中くすぐったい気持ちで、どこを見たらいいかわからないヒロは、テーブルの上の写真を見つめた。
 とても好きな、直帆の写真。一生でいちばん嬉しいプレゼント。優しい波が砂浜を撫でている穏やかで、永遠を感じさせる写真。
 確かにとっておきの家に飾りたい。
 そう思うと、どんどんイマジネーションが湧いてくる。

 壁の色、床の素材、天上の高さや、窓の位置。飾るなら玄関か、リビングか、海の写真だから、明るくて風の入るところがいい。
 次々浮かぶアイデアに、ヒロは幸せな気持ちになった。
 ふたりの家を設計することは、直帆へのプレゼントというより、自分へのプレゼントかもしれない。

「直帆」
 ヒロは名前を呼び、顔を上げた恋人の顔を見つめた。自然と微笑が生まれる。
 恥ずかしさはもう薄れて、今はいとおしさでいっぱいの胸が、どきどきと幸せな音をたてる。
 何も言わなくても、直帆がそっと腕を引いて、身体を抱き寄せてくれる。
 抱きしめられると、直帆の心臓の音が聞こえて、それだけで嬉しい気持ちになる。

「地下一階、地上二階建てでいいかな?」
「うん」
「間取りは頑張って四LDKで」
「キッチン、広くして」
「うん。機能も充実させてね。リビングは光がいっぱい入ってくる感じで、小さくても庭も欲しいな」
「そうだね」

 ぎゅっと直帆の身体に強く抱きつくと、髪を撫でられ、顔を上げると、静かで優しいキスが降りてくる。
 思い描く新しい家と、そこで暮らす数年後の自分たち。

 ささやかな庭に干された洗濯物や、リビングの、風に揺れるカーテン。テーブルの上のティーセットと、ソファーで寛ぐふたりの姿。
 それらがとてもリアルに浮かんで、ヒロはまた背中のもぞもぞを感じながら、恋人に向かって、にっと笑いかけた。


 おわり


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