Scene 1


「さすが、一ノ瀬さんですな」
 目の前の、自分より随分年上の男は、そう言って豪快に笑った。
 一ノ瀬薫は軽く微笑んで、そんなことないですよ、と唇を動かした。
 上機嫌の年上の男は立ち上がり、それじゃ宜しく頼みます、と言って退室していく。その背中をぼんやり見送り、ひとりになった広い部屋で、薫は深いため息をこぼした。
「さすが一ノ瀬さん、か……」
 男の言葉を反芻してみると、一気に胸が寒くなる。
 さすがって、何がさすがなんだよ――



「一ノ瀬君って、さすがよね」
 そう無邪気に言ったのは、確か生まれてから三番目に付き合った彼女だった。といっても、最初の彼女も二番目も、四番目以降も、女性たちは大抵、似たような言葉で自分を誉めたから、三番目の彼女だけが特別だったわけじゃない。
 特別だったのは、薫のほうだ。
「さすがって、何が?」
 そう問い返したのは、あの時が初めてだった。

「え? だから、ほら。今回も成績トップだったでしょ? 全国でも十位以内だったって、一ノ瀬君が言ったんじゃない」
 くすくすと、彼女は可笑しそうに笑った。けれど、薫は全く愉しくなく、当然おどけているわけでもなく、本当に彼女の言うさすがの意味がわからなかったのだ。
「君は俺と付き合い始めて、まだ一週間も経ってないだろう? それで、どうしてさすがだって思うんだ?」
 機嫌は良くなかった。
 梅雨の時期で雨が多く、その日も朝から雨が降り止まず、雨のせいで制服のズボンの裾が濡れるのも堪らなく不快だったし、何より頭が酷く痛かった。

「どうしちゃったの、一ノ瀬君? 私、そんなに変なこと言ってないと思うけど……」
 彼女の視線が不安そうに揺らぎはじめたので、薫はそこで追及を止めた。
「なんでもない」
 軽く首を振れば、彼女はもう忘れたようで、にっこりと可愛らしく微笑んで見せた。

 けれど、薫の頭のなかでは疑問が消えず、頭痛はますます酷くなった。



 ノックが響き、薫は我に返った。
 まだ仕事中だ。
 薫は自分に言い聞かせて、気分をきっぱりと切り替えた。


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