Scene 1 ピアノの音が耳に心地いい。 アルコールの回った頭は考えるということを八十パーセント以上放棄して、全身がふわふわとしている。 こんなに酔ったのはいつぶりだろう……? 一ノ瀬薫は、残り二十パーセント程度の思考力でそんなことを考えていた。 手のひらのなかには冷えたグラス。目に写るのは暗めに落とされた照明に照らされる酒瓶の並んだ棚や、バーテンダーの蝶ネクタイ。 急に笑いたい気分が襲ってくる。 親友がホモになった―― こんなに可笑しなことがあるか…… けれど、実際に湧いてくるのは笑いではなく憤り。やり場のない腹立たしさだ。 ああ、大学の卒業式の日以来だ。 ふいに、僅かな思考力がさきほどの自問への回答を導き出した。 そうだ。こんなに酔ったのはあの日ぶりだったのだ。 また笑いたいような、泣きたいような気持ちになった。 二十二歳の春。卒業パーティーを終えて友人たちと別れた後、ひとり部屋で、朝を越して昼になるまで飲み続けた。祝いたかったわけじゃない。大学生活に名残があったわけでもない。 薫にとってあれは、ある種儀式みたいなものだった。明日からは社会人。それもただの社会人じゃない。あれは最初で最後の自棄のはずだった。 まさか二度目があるとは…… 今度こそ、ふっと笑いが漏れた。 親友がホモになったのは、間違いなく自分自身のせいでもある。 自分自身の気持ちに気づいていなかった彼の背中を、微力でも確かに押したのは事実だ。 親友の名前は柏木直帆。 物心つく前から一緒にいて、ずっと自分を慕ってくれた、薫にとって唯一無二の存在だ。 やはりあれは失敗だった。 あの時自分は、道を正してやるべきだったのに…… 頭には否が応でも直帆の両親の顔が浮かぶ。 握り締めていたグラスのなかのスコッチウィスキーを煽った。またとろりとした酩酊感のなかに落ちていく。 いや、本当は、そんな罪悪感だけが心を苛んでいるわけじゃないのは、薫にもわかっていた。 結局は、親友を奪われたという喪失感に参ってしまっている。 世界に名前を轟かせるまでになった大企業の跡取りとして生まれ、周囲が羨まずにはいられないほどあらゆるものを持ち、二十七歳にして今やその会社の実質的にトップに立っている。 まさに絵に描いたようなエリート街道を追い風だけ受けて歩いているような男。けれど、蓋を開けてみればなんと脆いことか。親友ひとり奪われて自棄を起こすのだから、世間が知ったらいい笑いものだ。 けれどそれは、裏を返せば一ノ瀬薫という人間の孤独を赤裸々に物語ってもいる。 その孤独に薫自身は、もう何年も気づかないふりをしてやり過ごしてきたのだ。 グラスが空けばおかわりを注文して、またぐいっと煽る。もう何杯呑んだか、何時間経ったか、何もわからなくなって、思考能力もどんどんなくなっていく。 それでいい。もう、何も考えたくなんかない。 そうだ。もうなにもかも投げ出したい。 いくら贅沢と咎められようが、与えられた地位も名誉も、誰かにくれてやりたいと思うことは、度々ある。それでも、薫は一ノ瀬薫でしかありえず、つまり、一ノ瀬という会社名を棄てられない。 また酒を煽る。 弱い男は、精一杯強がって、度数の強い酒ばかり胃に流し込み続けた。 ああ、沈んでいく――どことも知れぬところへ沈み込んでいく感覚。 最後に目にしたのは、華やかな姿をした女。 最後に耳にしたのは、 「隣、よろしいですか?」 という、耳障りのいい声だった。 |