Scene 2


 最初に目にしたのは、真っ白なシーツ。
 最初に耳にしたのは、自分の唸り声だった。
 蟀谷には不快な頭痛を感じ、胃のむかつきと虚脱感で、とても身体を起こす気にならない。
 うつ伏せに寝転がったまま、だるい首を僅かに浮かせて部屋を見渡す。
 思考力が徐々に蘇ってくる。それにつれ、ここが自分の部屋じゃないことに気づき、ホテルのベッドに寝ているんだとわかり、だんだんと嫌な予感が浮かんでくる。

 記憶がない。

 記憶がないということは、薫の内に言い知れぬ恐怖を湧き上がらせる。
 確認するまでもなく、服を着ていない。全裸だ。幸いなのは、人の気配がないことだけだが、ひとりで泊まったという確率は限りなく低く思われた。
 部屋にも家具にも全く見覚えがない。ということは、このホテルに泊まったことがないはずだ。泊まったこともないホテルにわざわざ自分が泊まるはずがない。いくら酔っていても。だって、呑んでいたバーは自宅から遠くはない。バーの周辺に自分が好みそうなホテルもない。
 カーテンは閉じられ、部屋は暗いが青く光るベッドのデジタル時計は十一時過ぎを示している。一瞬慌てたが、すぐに今日は土曜だと思い直した。
 電話がかかってきた様子もないし、レイトチェックアウトなのだろうか?

 うつ伏せになっているのに疲れ、寝返りをうつと、微かに甘いような香りがして、どきっとした。
 やっぱり、ひとりじゃなかった。
 香りは、昨夜どういう形でかはわからないが、ともかく同じベッドで寝た人物の残り香に違いない。
 突然、薫の脳裏に自分に覆いかぶさる人間の姿が浮かんで、はっとなった。それはすぐに、はっと、なんて生易しいものではなくなる。驚愕と呼べるほどの衝撃が全身を走る。 
 思わず飛び起きて、もう一度辺りを見渡した。

 部屋にはダブルサイズのベッドがふたつ並んでいる。薫が寝ていたのとは違う、もう一方のベッドは綺麗にベッドメイキングされたままだ。
 どう考えてみても、ふたりはわざわざひとつのベッドで寝たのだ――
 頭痛も吐き気も、そんなものはどうでもよくなって、ベッドを慌てて降り、うろうろと歩く。彷徨わせた視線が、テーブルの上に一枚の紙を見つけた。
 ホテルの名前が入ったメモ用紙には『See you soon.』と、踊るような筆記体で書かれている。
 その紙からも、あの甘い匂いが香ってくる。おそらく香水を吹き付けたのだろうが、その匂いを嗅ぐたびに、薫の脳味噌は残像のような幻のような、霞がかったシーンをリプレイしようとする。

 ぶるぶると頭を振る。
 違う。
 そんなはずがない。
 これは記憶じゃない。たぶん夢かなんかだ。
 夢だとしても悪夢だ。

 追い払おうと努力すればするほど、こびりついたように頭を離れない像。
 ふと鏡に映った自分の姿が目に入り、再び薫は愕然となった。
 鏡のなかの己の身体には、数え切れないほどの赤い淫靡な痕があった。それはなぜか腰骨の辺りに集中していて、数よりもその赤さが尋常じゃない。
 目を逸らす。
 また蘇るシーン。
 違う。違う。
 そんなのは嘘だ。
 頭も心も、全身を支配する像は消えない。
 出ていけと、心の内で叫ぶ。
 今度は声が聞こえてくるような気になる。
 薫、と掠れた甘く粘つくような声が名を呼ぶ。
 こんなの嘘に決まっている。
 二日酔いからではない頭痛がする。
 この頭をどこかにぶつけてしまいたいほどの衝動に駆られ、薫はベッドにへたり込んで頭を抱えた。

 居座ったままの像のなかの人物が笑う。
 それは見紛うことなき、男の姿をしていた。



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