Scene 32


 誰もいなくなった教会はしんと静まり返り、よく晴れた窓の外からは蝉の声が聞こえている。
 日曜日。ミサが終わり家族もみんな帰った教会にひとり残り、朋聡は長椅子に座って、見慣れたその場所を見渡してみる。
 白い壁には優しい色合いのステンドグラス。中央には祭壇と十字架。小さい頃からずっと変わらない。通いなれているのに、とても遠くて、大好きなのに心が苦しくなる場所。
 朋聡には忘れられない思い出があった。

 まだ十一歳の頃、自分が人とは違うと気づき始めた頃のこと。当時この教会にいた神父に何か悩んでいるのかと訊かれた。
 普通にしていたつもりだった朋聡は驚いたが、その優しい問いかけが嬉しくて素直に頷いた。
 けれど、どうしても正直に話すことはできなかった。
『俺は神様に背いてしまうかもしれません』
 押し黙ったままだった朋聡が辛うじて搾り出した言葉に、神父は少し小首を傾げて、
『神様って誰のことを言ってるんですか?』
 と言ってにっこりと笑った。
 意味がわからず何も言えないでいると、神父は小さく肩をすくめておどけたような顔をした。
『私がこんなことを言ったなんて内緒にしてくださいよ』
 朋聡は神妙な思いで頷いた。

『私はもちろん神様を信じています。けれど時々主よりも大切なものがあると気づく。それは自分です。これは私が愚かな為かもしれません。もう若くはないですが、精神的に幼い故かもしれません。しかし、そう感じている自分を否定しようとすると、行きづまってしまう。それを否定するということは、嘘をつくということだからです』
 そこで神父は黙った。
 朋聡が何か言うのを待っているのかと思ったが、彼はこちらを見ずに壁の十字架をじっと見つめていた。
『自分を大切に思うことは、きっと間違いではないと思うんです。ただ、自分を大事にすることと、自分勝手になることは違います。独りよがりにならない為に、人には神様が必要なんです』
 そこまで話すと、神父は無言で立ち上がり、奥へ消えていった。

 残された朋聡は、十字架を見上げた。
 神様。
 確かに自分にも神様は必要だと思う。神様がいない世界で生きていくのは怖い。だけど、きっとこんな自分を、神様がお許しにならない。自分ばかり神様を求めるのは、神父様の言うとおり、独りよがりな思いだ。

 どうして男の子を好きになってしまうんだろう?
 どうして俺は普通じゃないんだろう?

 じわりと涙が溢れてきた時、静かな足音をたてて神父が戻ってきた。
 目が合うと、彼はにっこりと微笑んで近づいてきた。そして、朋聡の目の前に十字架のついたネックレスを掲げた。
 キリスト像の後ろにメダイがはめ込まれた、精巧なものだった。
『これを、君にあげましょう』
『え……?』
『昔私がつけていた古いものですが』
 彼はそう言いながら、それを朋聡の首にかけた。

『いつかきっと』
 胸元にのった十字架を見つめていると、神父が言った。
『いつかきっと、あなただけの神様に出会えますよ』
『……俺だけの、神様ですか?』
 神父はゆっくりと頷いた。

『とっても大切で、とっても大好きな人。この世界でいちばん信じられる人です。そんな人が現れたら、その人を神様と思って、精一杯愛しなさい。そして、その神様には背かぬように、精一杯生きることです。それまでは、その胸の神様が君を守ってくれるはずです』
 朋聡は神父が目で示した自分の胸元を改めて見てみた。それから神父の言葉を頭のなかで繰り返して、銀色の十字架をぎゅっと握った。
『ありがとうございます、神父様。これ、大切にします』
 朋聡が言うと、神父はにっこりと笑って、最後にちょっとだけ苦笑いをしながら言った。

『あなたの細い首には、まだ重たすぎるかもしれませんがね』

 朋聡はあの頃と変わらない教会を見渡しながら、胸元に手を当ててみた。
 そこにある十字架は、もう十五年以上ここにある。
 ずっと重たかった。
 身体が成長しても、ずっと。今までは。

「神父様、ちょっとくさいよね」
 ひとりごちて、苦笑する。
 それから立ち上がって、出口に向かった。去り際に、もう一度壁の十字架を見て、ドアを開けた途端眩しい夏の光に襲われ目を細める。

「橘」
 通りの向かいから名前を呼ばれた。
 その声に嬉しくなって、朋聡は大声を出した。
「薫さーん、迎えに来てくれたんですかー?」
 手で光を遮りながらもう片方の手を振ると、薫は呆れた顔をしながらもこちらへ向かって歩いてきた。

 黒い髪が、陽光を受けて輝いている。本当に綺麗な人だ。
 じっと見惚れていると、
「何ぼーっと突っ立ってる?」
 と不機嫌に責められた。
「薫さんが素敵だから目を奪われてたんです」
「バカ! くだらないこと言ってないで行くぞ。ランチの予約をしてくれって言ったのはお前だろう? もう既に遅刻だぞ」
 苛々と腕時計を示してきたが、朋聡はそんなものには目もくれず、相変わらず薫の顔をじっと見つめていた。

 怒った顔も可愛い。黒い目を覆う睫毛は細いけれど長い。動く唇は上品に赤くて、見ているとすぐ欲しくなる。
「ねえ薫さん、ランチはキャンセルしてください」
「はあ? なんで急に? お前が食べたいって言うから無理言って――」
「だって、食べたいものが変わっちゃったんです」
 熱を込めて薫の瞳を見つめると、彼はじりと後退る。
「だから薫さん、今から俺の部屋に――」
「ば、バカなことを言うな、バカ! 飯、行くぞ」
 薫は慌てた様子で背中を見せて、歩き出す。

 ホント、可愛い。
「薫さんったら、何勘違いしてるんですか? これから俺の部屋で、今度の会議の打ち合わせしませんかって言おうとしただけなのに」
「嘘だ。だって、食べたいものが変わったって」
「それは、うちの近所のパスタが食べたくなったって意味でー」
 茶化すと押し黙る。
 もう、どうして俺の前だとこんなに子どもになっちゃうのかなー?

 会社での彼をよく知っているからこそ不思議だ。実際、一昨日の金曜日までは、本当にこの人とセックスしたのかと疑いたくなるくらい、薫は冷静だった。冷静すぎて、不安になった。
 可愛さを取り戻したのは、昨日の夜。薫の新しい住居に押しかけて、ベッドに誘ってからだ。
「なんて嘘ですよ。あなたを抱きたくなったから、家にきてくれませんか?」
 耳に唇を寄せて囁くと、薫はぴくりと身体を震わせた。

 教会のまん前で何をやってるんだろう?
 朋聡はこっそりと笑う。
 以前なら絶対こんなことできなかった。今できるのは、相手が薫だから。薫のことは、神様の前でも堂々と口説ける。
 本当に不真面目な信者だ。
 でもきっと、俺の神様は許してくれる。

「ねえ薫さん。ダメですか?」
 薫は背を向けたまま、小さい声で応える。
「……飯は、予約してるし、迷惑かけたくないから……その、後でなら」
 夏の強い日差しと、教会に植えられた木々の匂いを感じながら、朋聡はそっと胸元に触れた。

「薫さん、こっち向いてください」
「嫌だ」
「お願い」
 渋々と、薫が振り向く。

「愛してます、薫さん。ずっとあなたを大切にするって誓います」
 薫が息を呑むのがわかった。それから顔を赤く染めて、胸を力いっぱいに押される。
「おま、え、き、教会で、なんてこと言うんだ!」
 しどろもどろで逃げ去ろうとする腕を捕まえて、
「教会だから言うんですよ」
 と言ってみると、ぶん、と音が鳴りそうな勢いで腕を振り払われる。

 早足で逃げていく後姿を見ながら朋聡はひとりで、神父様より俺のほうがずっとくさいな、と苦笑した。
「薫さーん、待ってくださーい」
「うるさい! もう知らん!」

 ぎらぎらと容赦なく降り注ぐ太陽の光が、ふたりを精一杯に照らしている。
 青空の向こうで、あの神父は呆れているだろうか? それとも笑っているだろうか? たぶん、きっと、喜んでくれている。そう勝手に思うのはおそらく、間違いではないと、朋聡は思った。





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