Scene 10


「はあーぁ……」
 枕に顔を押し付けたまま、ヒロはため息を吐いた。
「もう、ヒロ六回目だよ、ため息。いい加減やめてよ」
「うるさい」

 今夜もヒロの部屋には響がいた。付き合いがあるのは響だけじゃないのだが、ヒロが凹んでいたり、苛立っていたりする時は不思議といつも響が来ているような気がする。
 ネクタイを緩めただけのスーツ姿でベッドに突っ伏しているヒロの傍らで、彼はのん気にアイスクリームを食べている。

 帰る早々、既に部屋にいた響は目聡く何かあったのか、と訊いてきた。隠すようなことでもないし、誰かに愚痴りたい気持ちもあったから、ヒロは洗いざらいぶちまけたのだが、響の感想は、ふーん、だけだった。
「なんだよヒロらしくない。お兄ちゃんに苛められるのは今に始まったことじゃないじゃないか」
「瑞月はお兄ちゃんじゃなくて、弟だよ……」
 どっちが兄か弟かは、それぞれが勝手に言い張っているだけで実のところはどっちがどっちだかわからない。親のいない三つ子なのだからしょうがないが、風香だけは潔く自分は末っ子だと認めている。
「どっちでもいいよ。とにかくうじうじしないでよね」
「悪魔を兄弟に持った俺の気持ちなんて、お前にはわかんないよ」
「そりゃわかんないけど、別に色狂いがばれたぐらいで、そんなに落ち込まなくたっていいじゃない?」
「色狂い言うな……」
 つっこみにも力が入らない。
「色狂いじゃなかったらなんだよ? 色魔? 淫乱?」
 もうつっこむ気も起こらない。

 ヒロはもう一度大きく息を吐いた。
「柏木さん、すごくぎこちなかった」

 恐る恐る振り返って見た柏木の顔は、見事に引きつっていた。
 どう見たって節操なしの自分みたいな人間とはかけ離れた、いかにも清潔そうな柏木だ。相当驚いたに違いない。
 柏木の顔は、彼が帰っていくまでまともに見れなかった。交わした会話もほとんど覚えていない。たぶん、ほとんど瑞月がひとりで喋っていたのだと思う。

「絶対軽蔑されてる……」
「されてるだろうねー」
「響君、励ます気ある?」
「だいたいさー。ヒロ、柏木さんって人のことどう思ってるの?」
「え……?」
「そんなに落ち込むのは、なんか特別な感情があるからなの?」
 含みのあるにやついた顔をして、響はにじり寄ってきた。
「……こ、コラ、アイス持ったままベッドに乗るなよ」
「ねー? どうなの?」
 ヒロの言葉など完全無視で、響はヒロの顔を覗きこんでくる。
「そ、んなんじゃない」
「へー」
 見透かしたような響の態度に腹が立つ。けれど、強く言い返すようなこともできなかった。

 全く自分の感情に気づかないほど、ヒロは幼くない。柏木を意識していることは、自分でもわかっている。
 だからってそれを素直に認められるほどには、ヒロはまともではないのだ。
「あーあ……」
「もう! あんまりうじうじしてたら、僕帰るよ?」
「え!?」
 反射的に飛び起きて、ヒロは響の腕を掴んだ。響は眉を八の字にしてため息を落とした。

「ホントに……僕さ、ヒロらしくないのはイヤだよ。誰と付き合うにも物怖じしないのがヒロじゃない? ジメジメしてるのなんて、全然ヒロらしくない」
 唐突に、珍しい真面目な顔で響が言った。
「響……」
「僕は、ヒロのそういうとこが好きなんだよ」
 照れたのか、響は言い捨てるように言ってから、アイスクリームをぱくりと食べた。
 ガラにもなく、ちょっとだけ頬が赤い。
「響っていいヤツだったんだな……」
「な、なに? 今頃気づいたの? でも、ダメだよ。僕ヒロのお嫁さんになる気はないから」
「俺だってベッドの上でアイスクリーム食べる奥さんはやだよ」

 沈みきっていた気持ちが、少し浮上した。
 響がいてくれてよかったと思う。
 確かに響の言う通りだ。うじうじしてるのは似合わない。考えるより先に行動するのが、良くも悪くもヒロなのだ。
 今わかってることは、柏木さんに嫌われたくないということだ。それなら、なんとか弁解しなくては始まらない。
 ヒロはひとり頷いた。


 とは言え、
 現実はやはり甘くはない。

 翌日ヒロは勇気を振り絞り、食事に誘おうと電話してみたのだが、見事に振られた。
 しばらくは撮影で忙しく、予定が組めないのだという。
 もしかしたら、それは口実ではないかもしれないが、声がやはりぎこちなく、よそよそしかった。
「はあー……」
 前途は激しく多難のようだ――



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