Scene 11


 携帯電話を見つめて、柏木直帆は小さく嘆息した。
 勢いで嘘をついてしまった……
 早瀬からの食事の誘いを、仕事を理由に断った。撮影が立て込んでるのは本当だが、一晩の予定を空けられないほど多忙というわけではない。
 なぜ、あんな嘘をついてしまったのだろう?

 直帆はソファーに腰掛けたまま手を伸ばして、テーブルの上の写真を手に取った。
 かふぇ・それいゆの写真。
 あの日、店長に許可をもらって直帆が撮ったものだ。
 いつか一緒に仕事をしたいなんて言ったが、それより前にちゃっかり写真は撮らせてもらっていたのだ。

 今まで建築物にこんなに興味を持ったことはなかった。風景写真を好んで撮る直帆にとって、建築物というのは興味の対象外だったし、特に近代建築は気後れする部分が多く、あまり好きではなかった。
 けれど、このそれいゆを含むマンション全体は、コンクリートでできているのに温かみさえ感じられ、とても好感が持てる。
 あの建物を造ったのが早瀬だと聞いて、妙に納得した。人柄が、反映されている気がしたのだ。
 もしかしたら、自分は悔しいのだろうか?
 直帆が勝手に想像していた人物と早瀬が食い違っていたのが、悔しいのだろうか?
 けれど、たくさんの人と遊んでいたとしても、二度だけでも会って話した早瀬の印象がすっかり変わってしまうわけではないはずだ。
 それなら、軽蔑しているのだろうか?
 でも、そうだとしたら自分はあまりにも勝手なきがする。
 会って間もない人物を、例え自分とかなり違った行為をしていても、軽蔑するのは傲慢ではないか?
 けれど実際、直帆は早瀬を避けた。
 会いたくないと思ったのは、事実だ。

 数日前、理の言った言葉がこんな形で真相となって目の前に現れた。
 理の神妙な顔が浮かんだ。
 あんな小さな子にさえああいうことを言われるなんて、想像しているよりずっと早瀬は放蕩しているのだろうか……?
 胸が嫌な疼きを生む。
 どうして胸が痛むのだろう……?
 どんどんわからなくなってくる。

 もう、自分は彼に会えないのだろうか? 今の心境ではとても顔を合わせられそうにない。
 せっかくできかけた友人なのに……
 そう。直帆のなかで唯一はっきりしていることはそれだった。
 早瀬とはいい友だちになれる気がしていた。それを失くしてしまうのは惜しい。
 誘いを断ったのは自分なのに、直帆は早瀬との繋がりが薄れていくのを恐れた。
 テーブルに乗ったシルバーの携帯をじっと見て、直帆は意を決してそれを手に取った。


 「はい、お待たせ」
 サラダや手製のパンの乗ったテーブルに、タンシチューの皿を二つ並べて、直帆は席に着いた。
 いい香りが漂い、食欲をそそる。
 自分で作っておいて言うのもなんだが、今日のは相当自信作だ。

「旨そうだ」
 静かにそう言って、直帆の唯一無二の親友、一ノ瀬薫が微笑んだ。タンシチューは彼の好物だ。元々料理は好きだし、タンシチューも得意料理の一つだが、親友の好物だけに毎回気合が入る。
「いただきます」
 ほぼ同時に言って、ふたりはワイングラスを傾けた。軽く乾杯をして、それぞれ赤いワインに口をつけた。

「ごめんね、急に呼び出したりして」
「いや。今日は予定もなかったし、この前の埋め合わせもまだできてなかったからな」
 静かにナイフとフォークを使いながら、薫は笑みを浮かべる。
 この前というのは、個展の初日、結局その後早瀬と行くことになった、兄の店での食事の約束のことだ。
「そう? なら、よかった」
 安心して直帆も笑顔になる。

 薫は彼の祖父の代から続く名のある企業の一人息子で、現在は直帆と同じ二十七歳にして社長代理を勤めている。そのため、親友の直帆でさえなかなか会えないという多忙ぶり。
 特に最近は、なんでもずっと付いていた秘書が退社するとかで、普段以上に忙しい日々を送っているようで、あの日約束がキャンセルになったのも、そのことが関係していた。
 そんなことを百も承知で呼び出したのは、どうしても薫に相談したかったからだ。
 人付き合いの経験が少ない直帆と比べると、薫は全く逆の人間だ。生まれた家の関係上、幼い頃から薫は社交的で、恋愛経験に関しても直帆とは比べ物にならない。
 早瀬に対するもやもやとした感情を、薫なら説明してくれる気がする。
 第一、相談する相手は薫ぐらいしかいないのだ。

 直帆は小さい時から薫の後ろをずっとついてきた。成績も薫がトップで直帆が二番だったし、スポーツでもだいたい薫には敵わない。その上薫は容姿も優れていて、直帆にとっては憧れの存在と言っても過言ではない。
 穿った見方をすると、常に自分の上にいる薫がコンプレックスになっている部分もあるかもしれないが――
 とにかく。
 困った時には薫。という式がすっかり出来上がってしまっているのだ。

「それで? 何かあったのか?」
 直帆が何も言う前に、薫が訊ねる。これも、もう出来上がったルールだ。お互い、顔を見れば何かあったんだろう、という見当ぐらいはつく。
「もしかしたら、すごくつまらないことなのかもしれないんだけど……」
「構わない。言ってみろ」
 そう言って、薫はナイフとフォークを置いた。
「うん……」

 直帆はゆっくりと最近あったことを、名前や早瀬のあけすけな台詞などはぼかしながら説明し、加えて自分の今の心境を話した。
「よくわからないんだ。彼をなぜか避けたいって思ってるんだけど、でも、こんな言い方子どもみたいだけど……友だちにはなりたいんだ」
 そこまでいい終わって、直帆はふっと息をついた。
 話を聞いている間じゅう、薫は渋い表情をしていた。
 やっぱり、くだらない相談だっただろうか?

「……直帆」
「ん?」
「そいつとは付き合わないほうがいい」
 親友はきっぱりと言った。
「そいつは自分でも認めるほど遊んでいるんだろう? そんなやつと付き合うなんてろくなことがない」
 薫はワインをひと口飲んで、もう話はお終いだ、と言わんばかりに食事を再開した。
「でも、彼の造る作品は――」
「仕事とプライベートは別だ。直帆、そいつの作品が気に入ったなら仕事上で付き合えばいい。プライベートでは関わらないほうがいい」
「だけど――」
「ダメだ。くだらない人間とは付き合うな」
「くだらないって――」

 そこで薫はまた食事の手を休めて、小さく嘆息してから言う。
「くだらないじゃなかったら、つまらない人間だ。直帆には必要ない部類のやつらだ」
 その瞬間、直帆のなかで何かわからないものが湧き上がってくるような感じがした。
「そんな風に言われたくない!」
 気づけばそう叫んでいた。
 叫んだ直帆も驚いたが、薫はもっと驚いていた。大きく目を瞠り、こちらを凝視したまま固まっている。
 無理もない。直帆が感情を露わにすることなど、二十年以上の付き合いのなかでさえ数えるほどもないのだから。

「ご、ごめん……薫……」
「いや……」
「ちょっと、俺どうかしてるね」
「いいんだ、直帆。俺も言い過ぎた。でも、俺は直帆が心配なんだ。お前は優しすぎるから」
「そんなことはないけど……」

 親友が自分を常に気遣い、案じてくれているのはよくわかっている。わかっているのに、なぜ声を荒げたりしてしまったのか――
 結局解決するどころか、混乱の種がひとつ増えてしまった。
 本当に、どうしたらいいんだろう……
「とにかく、食事をしよう。せっかくの料理が冷めてしまう」
 促されて、直帆もフォークとナイフを使い始めたが、いつものように美味しく感じない。
 薫も考え込んでしまったらしく、ふたりとも黙りがちとなった。

「……直帆。あのな……わからないことを考えすぎるな。お前の場合、おそらく気持ちが答えを出すさ」
 ふと、薫がそんなことを言ったが、直帆には全く意味のわからない、呪文のようにしか聞こえなかった。



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