Scene 9


『ぼくもたのしかったですおやすみなさい』
 液晶画面が映し出す短い文章は、もう何度も読み返し、確実に送信者の声で想像できるようになっていた。
 昨日の別れ際、思い切って携帯のメールアドレスを聞き出し、家に着いてすぐ、食事がおいしかったことや柏木と話せて嬉しかったこと、いつか一緒に仕事をしようという約束のことなどを何度も練り直して送信した。その返事が『ぼくもたのしかったですおやすみなさい』という、ヒロの送信したメールの五分の一ほどの文章だ。
 そんな短いメールなのに、返事が返ってきたのはたっぷり十分以上後だった。

『僕はあんまりメールをしたことがないので、返事は遅くなると思いますけど』
 ヒロがメールしてもいいですか? と訊くと、柏木はそう言って少し気恥ずかしそうな顔をした。
 だから、返事が十分以上経ってからやって来たのは、何も後回しにされたわけではなく、きっと着信してからずっと携帯電話相手に奮闘していたに違いない。何しろ、漢字変換も句読点の打ち方も知らないらしいのだから。

 ヒロの周りに、メールひとつ打てない人間はいない。仕事で付き合いのある四十過ぎの男は、ヒロ以上にメールをしてるし、五十半ばの職人でも、初孫の写真をメールで送ってくる。
 ヒロはもう一度、ひらがなばかりのメールを見る。微笑ましい気持ちと、なぜだか嬉しい気持ちで浮き立ちそうになる。
 柏木がメールもできない男だというのが、どうしてか嬉しくてしかたがない。それに、ひらがなばかりのメールは、柏木にとても似合っている。

「社長。にやにやしてる暇があったら、例のカフェのデザインやっちゃってくださいよー」
 せっかくの楽しい気分に水を差したのは、事務員として雇っている仲川だった。
「息抜きだよ、息抜き」
「息抜きは働いてからしてくださいよー。今日はずっとペンさえ握ってないじゃないですかー」
「うるさいなー」
 痛いところを突かれて、ヒロはしかたなく携帯を閉じた。
「自分だって、今日遅刻してきたくせに」
 腹いせに今朝の失態を蒸し返してやったが、仲川は聞こえないふりでパソコンに向かっている。

 あーあ。
 なんも浮かばないからぼーっとしてんだよ。
 心のなかで、情けない愚痴を言う。
 机の上に広げたスケッチブックには、描きかけのデザイン案が散らばっている。
「うーん、うーん……」
 いくら唸ってみても、何も出てこない。

 頭のなかに抽象的なイメージの断片があるにはあるが、うまくまとまらない。パズルのピースがいくつもあるけど、全部バラバラのパズルのだからどれもくっつかない、そんな感じで、ようはぐちゃぐちゃ。
 ぐちゃぐちゃの頭に、ある言葉がふっと湧く。
『使い古されたイメージを寄せ集めているに過ぎない』
 以前、会ったこともない偉い建築家に、雑誌を介して言われた言葉だ。
 思わず、あーっと叫びだしたくなり、頭はさらに雑然と散らかる。

 埒が明かない。
「仲川、俺散歩に――」
 出かけてくると言いかけたヒロの目に、地獄からの使者の姿が映った。

「ご機嫌いかがですか?」
   瑞月が現れた。
 これがゲームなら、迷わず「逃げる」を選択したが、生憎これは現実だ。
 なんの前触れもなく事務所を訪れた瑞月は、わざとらしい愛想笑いを浮かべて、許可もしてないのに入室してくる。
 わざとらしいのは笑顔だけじゃなくて、着物や風呂敷に包んだお土産も、上品さを主張しすぎていてヒロは寒気がする。
 本当は全然上品な性格じゃないくせに。

「いいわけないだろ」
 部屋の奥にある小さなキッチンからカチャカチャと慌しくお茶の準備をする音が聞こえてくる。瑞月の登場に慌てて席をたった仲川だ。やつは瑞月の紹介でここへ来ただけあって、瑞月が来た時だけはやたら素早い。まるで犬だ。
「あら、それはいけないですね」
 言葉とは裏腹に瑞月は楽しそうだ。間違いなく自分の登場が機嫌を悪くしているのだと知っている。
 ヒロの手元で、書きかけのスケッチの上にぐちゃぐちゃと黒い円ができる。どうせ破棄しようと思っていたボツ案だが、腐っても自分の作品。こんな風に上から塗りつぶすなんてことは滅多にしない。よほど内心が荒立っている証拠だった。

「いつ東京に来たんだよ?」
「東京? ここは横浜でしょう? 相変わらずですね、あなたは」
「うるさいなー。細かいことはどうでもいいんだよ」
 苛々する。
 相変わらずなんだって言うんだ?
 どうせ、バカだって言いたいんだろう?

 苛立てば苛立つほど相手の思う壺だってわかっているのに、ヒロは本心を少しも隠せない。
 瑞月はデスクに置かれた模型を珍しそうに見ながら、のんびりと答える。
「二週間くらい前だったと思います」
「何しに?」
「仕事ですよ。東京支社のほうで少し大きな仕事をしてるものですから、様子見に」
「そうかよ。いつもいつも忙しそうだな、雨宮さんは」
「そうですね。あなたはさっさと雨宮じゃなくなってよかったですよ」
 嫌味で言ってるのか、本気で言ってるのかわからない言葉に、ヒロは複雑な気持ちになった。

 ヒロたちの苗字が違うのには、当然理由がある。
 そもそも、ヒロたち三つ子には両親がいない。いない理由は聞かされていない。たぶん、捨てられたのだろう。
 物心ついた時には、三人揃って雨宮というかなりの資産家のもとで暮らしていたのだが、ヒロはその家からも捨てられた。雨宮という由緒正しい家に少しも染まれなかったのだ。

 中学生に上がると同時に雨宮の家を出て、丁度その年に退職が決まっていた執事の、早瀬康三に養子として迎えられた。
 子どものなかった康三はヒロを可愛がってくれたが、ヒロの高校卒業を待たずに亡くなった。
 そんな理由から、既婚の風香を含め三人が三人とも苗字が違う。
 でも結局、瑞月が雨宮家を継ぐことはなかった。
 丁度ヒロが家を出た頃、雨宮家には正式な跡継ぎが生まれたのだ。
 勝手だと思う。けれど、それがしかたないことも大人になったヒロはよく知っている。
 瑞月はどう思ったのだろう?
 ずっと平然と、何もなかったような顔をしてはいるけれど――

「何を考え込んでるんですか? 慣れないことをすると、回線がショートしますよ」
 ちょっとでも気にかけたりするんじゃなかった。
 ヒロは特に今必要でもない分厚い資料を横にある棚から取り出して、わざと大きな音をたてて机の上に置いた。
「うるさい! 俺だって悩みのひとつやふたつあるんだよ」
 見るともなしにぺらぺらページを捲って言う。
 こうやって忙しさをアピールしてるつもりなのだが、瑞月は一向に気にする気配もない。

「へー。例えば、ある日突然この世のものとは思えないような綺麗な人に出会って、どうやったら落とせるか悩んでたり?」
「ぬ……」
 思い出した。
「お前、柏木さんにちょっかい出すなよ」
「ちょっかい? なんのことです?」
「とぼけるなよ」
 知らず強い口調になる。

 瑞月のこういうのらりくらりかわすやり方は腹が立つ。
「だいたい、僕と柏木さんは同性じゃないですか?」
「な! 何をぬけぬけと。ホモのくせに!」
 ここが仕事場だということも忘れて、ヒロは大声で抗議したが、相手は怯むどころかくすくす笑っている。
「そんな根拠のないことを」
「根拠ならあるだろ。だってお前昔俺に――」
 そこではっと口を噤んだ。

 さっとキッチンに視線を走らせた。ふたりきりの職場で気の置けない間柄の相手といえど、口をつきそうになったのは仲川に聞かせられる話ではなかった。
  彼はまだお茶を淹れている。さすが念入りだ。随分前に瑞月にお茶を出した時、薄すぎるだの、出がらしを出すとはいい度胸だのと、小一時間もの間散々なじられたのが利いているのだろう。

「何か言いたいことがあるなら、はっきり言っていいんですよ? 俺に、の続きはなんなんですか?」
「とぼけるなよ。それともまさか忘れたっていうのかよ?」
 ヒロは立ち上がって、手近な椅子に勝手に腰掛けている瑞月に小声で詰め寄った。

 仲川が精一杯の愛想笑いを浮かべながら、慎重に茶を運んできて、震える手でそれをテーブルに載せた。と同時に、瑞月が不満げな声を出す。
「これは煎茶ですか? ぼくはほうじ茶がよかったんですけど」
「そんなもんねーよ!」
 と、ヒロが言い終わるや否や、仲川は勢いよく頭を下げて、大声で謝った。それを見て瑞月はにやりと笑い、しかたないですね、と尊大に言った。
 本当に性悪だ。

「本当に覚えてないのかよ?」
 仲川がそそくさと去っていくのを見届けて、ヒロは話を蒸し返した。
「なんのことをですか? 具体的に言ってもらわないと思い出しようもないですよ」
 嘯く様子から、忘れていないことは確かだ。もし忘れてようものなら、きっと殺したいぐらいに憤った。
 ヒロは忘れようたって、絶対忘れられないのだから……

 あれはヒロが雨宮の家を出る少し前、突然瑞月に襲われたのだ。襲われたといっても、殴られたとかそんなんじゃない。そういうことなら間違いなくヒロが勝っていた。
 今でも思い出すたびに身震いがする。
 ある夜、瑞月はヒロの部屋へやってきて、いやらしい話を始めた。女性器のしくみはどうなってるとか、セックスをするとどんな風に感じるかとか。精通を迎えて間もない頃のヒロには刺激的な話だった。当然興奮してきて、前が硬くなってくるのを感じた時、瑞月はそっと手を伸ばしてこう言った。
『ヒロ、そこを誰かに触られたことはありますか?』
 言うが早いか、瑞月の手がパジャマのズボンの上から硬くなっている部分に触れた。
 もちろん拒んだが、瑞月は同じ十二歳とは思えないほど言葉も手つきも巧みだった。それとは反対に、ヒロは何かにつけて拙かった。
 結局、ヒロは瑞月の手で達してしまったのだが、それぐらいなら幼い頃のちょっと恥ずかしい思い出で済んだだろう、しかし、それだけでは終わらなかった。

『ヒロ、もっと気持ちいいところがあるんですよ』
 ヒロが脱力しているのをいいことに、瑞月はあろうことかとんでもない場所に指を這わせはじめた。そして何がなんだかわからないうちに、その指が進入してきて、動き始めたのだ。
 あの時の屈辱は死んでも忘れられない。
 さすがに、挿れられるのは指までだったが、それでも充分すぎる辱めだ。

「聞き捨てならないですね」
「本当のこと言ってるだけだよ。兄弟にあんなことするなんて変態以外のなんでもないだろ?」
「あなたも意外とデリケートなんですね。節操なしのクセに」
「なんだよ。そんなの関係ないだろ?」
「おや。節操なしという部分は認めましたか?」
「お前と違ってモテるからしょうがないだろう? 俺と寝たいってヤツがいっぱいいるんだから。毎晩セックスしたって足りないんだよ。誰とも本気で付き合ってるわけじゃないから誰も傷つけてないし、俺が何人とヤろうとお前に迷惑かかんない――」

 ふと、異変に気づいた。
 目の前に座る瑞月が、やけに嬉しそうな笑顔を浮かべてるのと、背後に感じる人の気配。
 凄まじく嫌な予感。

「お客様のようですよ、ヒロ」
 どうして俺は今入り口を背にしていたんだと、いくら後悔したってもう遅い。
 瑞月はやっぱり悪魔だ。
 背後から、今いちばん聞きたくない声が聞こえる。
「あの……ドアが開いてたんで……えっと、近くに来たのでご挨拶にと、思って……」
 振り返るまでもなく、そこにいたのは柏木直帆だった。



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