Scene 13


 左官職人が鏝で壁を塗っていくさまは、いつ見ても気持ちがいい。迷いのない動き。真っ白な壁。何もかもが清々しい。
 こんな風に自分の暗い心のなかも真っ白に塗ってしまえたらいいのに――

「ヒロ君は、本当に現場が好きだねー」
 隣から声をかけてきたのは、石工の田丸さんだった。
 ヒロが建築事務所で働いていた頃からの付き合いで、その当時からずっと可愛がってくれている。
「だって、目の前で自分の考えたものが形になっていくんだよ? すっげー、わくわくするよ」
「そりゃ、俺らも頑張んないとねえ。ヒロ君がまた鬼にならんようにしなくちゃ」
 田丸がげらげらと実に楽しそうに笑った。

 独立して初めての仕事で、ヒロはこの田丸を含む職人達と大喧嘩をしたことがあった。ヒロのデザインの意図がうまく伝わらず、若造が生意気にというようなことを言われてキレたのだ。
 ヒロは自分のデザインについて一時間以上も、声を荒げて説明し、無理やりに職人たちを納得させたものの、冷静になってから自分も最初の説明が至らなかったのだと気づき、翌日潔く謝ったことでなんとか和解したのだ。
 その後、職人たちとは驚くほど仲良くなってうまくやってるのだが、今でも時々こうやってからかわれる。

「あれは、俺も反省してるんだから、もうあんまり言わないでよ」
「まあ、今となってはいい思い出さ」
 そう言って、田丸は仕事に戻っていった。
「やっぱまだガキだと思ってんだなー」
 ひとり恨み言を呟くと、近くにいた職人がけらけらと笑った。

 こうやってきちんとスーツを着て、立派に建築家として名刺を渡せるようになっても、周囲からはまだ子ども扱いされているような気がしてならない。
 それはヒロの愛嬌だと思わなくもないが、なんだか腑に落ちない部分は拭えない。
 俺ももう二十五なんだけどな……
 と思いつつも、職人たちがヒロの仕事を認めてくれているのは、よくわかっている。そうじゃなきゃ、こんなに自分の思ったとおりのものが出来上がってくるはずがない。

 目の前でまさに造り上げられていく建物を見つめて、ヒロはこっそりため息をついた。
 当然だが、認めてくれる人がいればそうじゃない人もいる。そして時には辛辣な声が聞こえてくることもある。
 今日発売の建築雑誌に、以前ヒロに苦言を呈した例の建築家のインタビューが掲載されている。その内容はやはりヒロに対して好意的とは言えない発言が多いものだった。
 別に、万人に気に入られたいわけじゃないんだけどな……

 白く塗られていく壁をしばらく見守ってから、ヒロは現場を後にした。
 携帯を取り出して時間を確認した。もう少しで十八時になるところ。
 少し考えて、事務所の番号をダイヤルした。
「現場のチェック終わったから、俺このまま帰るわ」
 それだけ伝えて電話を切る。

 まだ外は明るく、夜の訪れは感じられない。駅前の通りはスーツ姿の集団や、若者たちで混み合っている。そんな集団をなんとか店に取り込もうと、チラシを持った男が呼び止めている。
 ヒロは駅へと向かいながら、携帯のメモリを繰っていた。
 今夜の相手を探しているのだ。ヒロの場合、デートの相手は大抵急に決める。メモリは五百件を超えているから、相手に不足するということはまずない。

 あ行からか行に移ったとき、ヒロの手が止まる。
 柏木直帆――綺麗な四文字の漢字が液晶画面に映し出される。
 もうあれから一週間――
 恐る恐る、通話ボタンを押そうとした時、突然携帯が振動し始めた。液晶には「響」という文字が浮かんでいる。

 携帯を耳に当てた途端、響のちょっと高い声が響いてくる。
『あ、ヒロ? あのさー、柏木さんって百八十センチくらいで、スタイル良くて、顔は超絶かっこよくて、髪形はふわって感じ?』
「そうだけど? なんだよ?」
『今いるんだよ、その人』
「嘘? どこに?」
『みなとみらい線の……でもさー』
 嫌な予感がした。

『なんか、着物着た人といる』



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