Scene 15


「柏木さん、何か考え事ですか?」
 静かな声が直帆の意識を呼び戻す。
「あ、すいません」
 タクシーは渋滞に捕まり、のろのろと走っている。
 時折無線が入る以外は静かで、窓の外を流れる夜の街の喧騒は届かない。

 頭のなかは、早瀬のことでいっぱいだった。
 さっき早瀬が発した言葉に、直帆は前回よりも強くショックを受けていた。それと同時に、言い知れぬ悲しみをも感じていた。混乱は益々広がって頭と心を混沌とさせていた。
 つい考え耽り、黙りがちな直帆の隣に座る雨宮が、ふいにこんなことを言った。
「光の洪水ですね。弱いものほど光を求め、群がることで安心する。自分が溺れているとも気づかずに」
 こぼれだした言葉は実に詩的で、なぜか胸が痛くなった。

「柏木さん。僕とヒロの苗字が違うこと、不思議だって思ったことないですか?」
「それは、思いましたけど……」
「僕の苗字の雨宮はね、あの雨宮なんですよ」
「やっぱり、京都の雨宮さんだったんですね」
 逡巡するまでもなく、直帆にはそれがどの家を指しているのすぐにわかった。なんとなく、そうではないかと思っていたからだ。
 京都の雨宮といえば、京都の人間だけでなく全国的に知られた資産家だ。普通は驚くだろうが、彼の雰囲気からすれば全く不思議ではない。

「そもそも僕たちには両親というものが存在しないんですが、僕たちを引き取った雨宮の家では僕たちは双子ということになっています」
 雨宮は淡々と話していたが、少しだけいつもとは違っている気がした。だけど、薄暗い車内ではその表情はよくわからない。
「僕と風香。ふたりだけが雨宮家の人間なんです。風香はもうお嫁に行ってしまいましたけどね」
 気分が重くなるのを感じた。
 雨宮の言葉の意味するところがすぐにわかったからだ。

 雨宮家については、親友の薫から何度か話を聞いたことがあり、経済界に疎い直帆でもある程度の知識は持っていた。
 明治時代から続く由緒正しい家系である雨宮の家は一族経営が基本で、上層部はみんな親戚らしい。家柄を守るということが、雨宮家にとっては経営のことより何より大切という。
 だからと言って、子どもを取捨選択するようなことは直帆には理解しがたい。
 見るからに奔放そうな早瀬が、どんな仕打ちを受けたのか想像に難くなく、嫌な気分に襲われる。

「ヒロはたぶん、雨宮家が自分を追い出したと思ってるでしょうが、彼をあの家から追い出したのは、僕なんです」
「え――?」
 どうして?
 雨宮と早瀬の仲が良好でないことは、会って間もない直帆にも察しがつくが、家から追い出すほど険悪だとはなぜか思えない。だって、そのことを話す雨宮は決して嬉しそうだったり、楽しそうだったりするわけじゃない。寧ろ、哀しそうだ。
「因果応報……」
 ぽつりと洩らした言葉は、さっき早瀬に向かって言ったのと同じ言葉。
「雨宮さん、何か理由があって早瀬さんを、その……」
「鳥は鳥かごのなかでは飛べない。そんなことは当たり前ですけど……飛び立ち、大空を手に入れた鳥は、代わりに還るべき場所を失った。いいえ……奪われたんですね」
 そう言うと、雨宮は直帆に向かってにっこりと笑んだ。

 いつの間にか渋滞から抜け出していたタクシーは順調に走り続け、窓の外からはネオンライトが去り、車は住宅街に入っている。直帆の家はもうすぐそこだ。
「この辺りですよね?」
「ええ……」
「変な話をしてごめんなさい。明日には京都へ帰らないといけないから、なんだかセンチメンタルになっているのかもしれませんね」
 笑う雨宮の声が、直帆の耳には痛々しく響いた。
 まるで見えない傷跡が、どこかにあるような。
 雨宮だけじゃない。
 早瀬ヒロも、もしかしたら……

「いろいろ楽しかったです、柏木さん。これ、お礼として受け取ってくれませんか?」
 信玄袋から取り出したのは、手のひらに乗るくらいの大きさの、ガラスで出来た小さな鳥だった。

 それを目にして、直帆は昔読んだガラスの動物園を思い出した。
 ガラス細工の動物たちを集めていた孤独な少女ローラ。彼女の心はガラスよりも繊細で痛々しく、けれどだからこそ美しいと思った。
 何を言ったらいいのかわからず、直帆はそれを無言で受け取った。
 冷たい感触がして、胸がつんと軋んだ。



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