Scene 17


 返事がない。
 手元のメモを何度も確認する。マンションの名前も部屋番号も間違ってないのに、オートロックのチャイムを何度鳴らしても返答がない。
 留守なのだろうか?
 携帯は繋がらないし――

 早瀬のマンションの前で、直帆は立ち往生していた。
 時刻は夜の十時。
 あの青年と一緒なのだろうか?
 何も考えず、マンションまで来てしまったが、早瀬がひとりじゃないという可能性だってあるのだと、今さら気づいて直帆の気分は暗くなった。

 俯いている直帆の耳に、ドアのロックが外れる音が聞こえた。なかから住人らしき若い男性が出てくる。
 思わず、男性と入れ違えになかに入った。
 エレベーターに乗り込んで、三階まで上がり部屋番号のかかれた小さな表札を見ながら、目的の部屋の前に急いだ。
 ドアの前のインターフォンを押すが、こちらも返事はない。迷いながらもおずおずとドアノブに手をかけると、意外なことに鍵がかかっておらず、ドアはすんなりと開いた。
 暗い影が、心に覆いかぶさってくる。

『ヒロ君、ここんとこ寝てないみたいなんだよ』
 夕方現場で会った職人が最初に口にしたのは、そんな言葉だった。
『なんかね、最近どうしたわけかヒロ君に批判的な記事が立て続けに雑誌に載ってね。俺たちはそんなの気にするなって言ってやったし、ヒロ君もいつもみたいににこにこ笑って、気にしてないよ、なんて言ってたんだけどね、どうも元気がなくて、目の下にはクマができて。顔色も冴えないし』
 批判的な記事の内容も、掻い摘んで教えてもらったが、当事者ではない直帆でも憤るほど根拠のないこき下ろしだった。
『ヒロ君は若いけど、根性が座ってるし、こんなことでへこたれないとは思うんだけどね』
 彼の言うことは、付き合いの浅い直帆にもわかるような気がした。
 直帆自身も経験があるからわかるが、若いというだけで正当に認めてくれないことが、どんな業界でも多かれ少なかれあると思う。けれど、早瀬にはそれに打ち勝つだけの自信と、強さがあるはずだ。でなきゃ、二十五歳で独立なんてできるはずがない。
 では、どうして彼は職人たちに心配されるような状況に陥っているか?
 答えはわからない。でも、直帆はその答えを導くヒントを持っている。
 ガラスの小鳥だ。

 強いように見えるのは、彼が精一杯に強がっているだけだとしたら?
 ドアの隙間から覗く部屋から明かりは漏れてこない。音もなく、直帆には自分の心臓の音だけが大きく聞こえていた。
 この三日間何もしなかった自分が、あんな話を聞いたというのに、仕事相手との食事を断らなかった自分が、相当に悔やまれる。

 靴を脱ぐのももどかしく、部屋に上がりこんだ。
 部屋は想像通り真っ暗だった。
 もしかして、鍵をかけ忘れているだけでやはり留守なのかもしれない、そう思った刹那ガタンという何かが倒れるような音が響いた。
 飛び上がった心臓は、どんどんとその鼓動を早めていく。

 恐る恐る音のしたほうへ向かう。
 泥棒だったらどうしよう……
 それでも空手の有段者である直帆は怯まず、寧ろ泥棒じゃない時のほうを恐れていた。
 そして、それは現実のものとなる。

 闇に慣れた目に、うずくまる早瀬の姿が映る。
 駆け寄ろうとするのに、足が動かない。
 どうすればいいのか、わからない。
 早瀬の身体は絶えずぶるぶると震え、押し殺したような嗚咽をもらしている。

 これがあの早瀬ヒロなのだろうか?
 光のない部屋で一人、子どものように膝を抱えて泣いている彼と、光のなかでキラキラと輝いている彼はどうしても一致しない。だから、直帆の足は竦んだ。
「早瀬さん……」
 名を呼んでみても、早瀬は反応しない。
 時々小さな声がこぼれるが、聞き取れない。
「早瀬さん!」
 大きな声を出すと、彼の身体がびくりと大きく震えた。

 驚かせてしまったかと慌てて近づくと、小さな掠れた声が聞こえた。
「……やだ……やだ……」
 子どもがぐずるみたいな口調。
「何が嫌なの?」
 腰を折って顔を覗き込もうとするが、早瀬はこちらを見ようとはしない。
「…………ちゃ、やだ」
 震えているのと、泣いているのとで言葉になっていない。それでも、必死に何かを伝えようとしている。

 手を伸ばし、頭を撫でる。
 なぜ早瀬がこんなことになってしまったかなんて、考える余裕はなかった。ただなんとかして、彼を落ち着かせないといけない。そればかり考えていた。
 どうにかしないと。

 ずっと頭を撫で続けているうちに、早瀬の身体の震えが幾分ましになってきた。
「何が嫌なの? ゆっくりでいいから教えて」
 頭を撫でていた手を背中に回すと、早瀬の手が直帆のシャツの裾を掴んだ。
「……おいてっちゃ、やだ」
 シャツを掴む手に力が篭ったのがわかった。
「おいてっちゃ、やだ……おいてっちゃ、やだ」
 言いながら早瀬が胸に顔を埋めてくる。彼の流す涙を肌に感じて、直帆は眉を寄せた。不快だったからじゃない。彼の痛みを肌で感じた気持ちになったからだ。

「大丈夫だよ、置いていかないから。泣かないで」
 安心させようと、ゆっくりゆっくり背を撫でる。
 整髪剤の香りと、微かなコロンのような香り。その大人っぽい匂いが泣きじゃくる彼の姿とちぐはぐで、胸がぎりっと軋んだ。

「大丈夫、大丈夫だから」
「うそだ……おれの…ことなんて……みんな、いらないくせに」
「いらなくないよ、早瀬さん。いらなくない」
 気がつけば、直帆は早瀬を抱きしめていた。
 いらないなんて、そんなことがあるはずがない。

「俺は君が必要だよ。とっても、必要だよ」
 今やっと、わかった。
 あの時自分は早瀬を軽蔑していたんじゃなく、嫉妬していただけなのだと。
 必死になって、早瀬の心を慰めようと口にした言葉が、ようやく自分に自分の気持ちを知らしめた。

 早瀬が好きなのだ――

 どうして気がつかなかったんだろう? こんなにも、自分は彼をいとおしく思っているのに……
 親友の言っていたことはこういうことなのだ。
 今まさに、気持ちが全ての答えを出した。

「大好きだよ。君のこと、君の作る建物も、君自身も」
 強く抱きしめて言う。
「でも……おれ、なんて……」
「どうして、なんてって言うの? もっと自信持っていいんだよ。誰が何を言っても、君の作品は素晴らしいし、君自身も魅力的だよ」
 心からの言葉を素直に口にする。 
「大好きだよ、早瀬さん」
 直帆の声を聞いて、胸のなかで早瀬はしゃくりあげて泣いた。その背を撫でながら、何度も何度も好きだと繰り返す。
「柏木さん……俺も好き……」
 胸のなかでくぐもった声がそう告げた。

 胸が苦しくて、痛くて、でも甘く満たされているような気持ちがした。

 ああ、これが恋なのか――

 直帆の心は感動でいっぱいになって、眸の裏が涙で熱くなっていた。



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