Scene 18 ヒロが顔を上げられたのは、それから十分以上経ってからだった。 「あの、本当にすいません」 「何度も謝らなくていいですよ」 苦笑して、柏木はカフェオレカップを手渡してくれる。甘い香りが鼻先を擽る。ミルクと砂糖が少し多目のようだ。 暖かいカフェオレを口にすると人心地つき、落ち着くとまたさらに、恥ずかしさや自分自身への戸惑いが一層濃くなる。 部屋を明るくするには勇気が要り、ベッドサイトのランプだけを灯した部屋は薄暗いが、それでもヒロはまだまともに柏木の顔を見れないでいた。 「大丈夫?」 「はい……たぶん」 幸か不幸か、記憶だけははっきりしていて、自分がどうなってしまっていたかはよくわかっている。 あの日、柏木に二度目の暴言を聞かれた日から、瑞月に言われたことと響に言われたことを必死に考えた。 全て、自分の今までの生き方が招いたことなのだということは、漠然とわかった。けれどそれよりもよくわかったことは、自分が実は孤独だったということだ。 寂しさに勝てず、おかしくなってしまった。 今、正気になってはじめて知った。 自分のなかに刻み付けられた傷の跡を。二度も捨てられたという痛い記憶がつけた、隠せない傷―― 「俺は、自分で思ってたよりずっと弱い人間みたいです」 柏木は黙っている。 「こんなこと言っても言い訳にもならないけど、俺ずっとひとりになるのが怖かったんだと思います。だから常に誰かに傍にいて欲しくて、でも……捨てられるのが怖くて深入りできなかった……」 この三日間、ヒロは自分に「ひとり」を命じた。 ヒロはもう十数年間もの間、ひとりで眠るということがなかった。意図的に、ひとりにならないようにしていた。 セックスは寂しさを紛らわすのに最も効果的な手段だった。 「ひとり」は結局三日ともたなかった。唯一胸を張って自慢できる仕事も批判されて、あるはずの自信まで見失って、自分自身を保てなくなった。 弱い自分を見せつけられた。 「俺ね、ひとりで寝れないんです。こんな年になって情けないけど」 太陽が沈んで、だんだん深まる闇は不安を掻き立てる。夜は恐怖だ。とてもひとりではいられない。 ヒロは二度も捨てられている。朝が自分を捨てたとしても、なんら不思議はない。太陽に見捨てられ、闇に葬られてしまうかもしれないという愚かな不安が拭えなかった。 それは弱さだ。だから隠したかった。弱い自分を認めるのは、闇に放り出されるのと同じ位に辛かった。 「だから、何人もの恋人を?」 問われて、ヒロは素直に頷く。 「でも、それは逃げてるだけだったんだって、気がつきました。っていうか、ここ最近はずっと、自分がこんなだっていうことさえ忘れようとしてて……自分のことなのに、忘れようとするなんて無理ですよね……」 孤独を知る必要、それは孤独に気づく必要という意味だったのかもしれない。 響はずっと近くから見ていて、何かに気づいていたのだろう。そういうことをはっきり言わないのも響らしい。 自分で気づかないと、意味がないのだ。 「柏木さん」 「ん?」 「どうして、来てくれたんですか?」 関係のない柏木を巻き込んで、失礼なことを言って、迷惑をかけて、優しくされる資格など全くないのに、それなのに柏木は来てくれた。おかしくなった自分を見ても尚、傍にいてくれた。それに―― 「それに、さっき……好きって……」 「ああ、うん……」 あの好きはどういう好き? 俺の建築物が好きなのと、同じ好き? それでも充分嬉しいけれど…… 胸がどきどきする。きゅっと締めつけられて苦しい。 「早瀬さん。恥ずかしながら僕は恋を知らないんだ」 「え――?」 そんな! こんなに綺麗な人がなんで? 驚きを隠せないでいると、柏木は気まずそうな顔をした。 「でも、早瀬さんに対する気持ちは、その、間違いないと思うんだ」 「う、うん……」 頬が熱くなって、どうしていいかわからない。 こんな気持ちになるなんて―― 「でも、浮気は許さないよ」 照れ隠しか、柏木のおどけたような声が届く。即座にヒロは口を開いた。 「しないよ、浮気なんて。だって、俺……こんなになったの初めてだし、つまり、本気で好きになったのは柏木さんが初めてだから、絶対大丈夫」 恥ずかしすぎる。 自分の口からこんな言葉が出るなんて、想像もしていなかった。 恋をすると、何もかもがコントロール不能になるのだろうか? 「えっと、どうしようか……?」 柏木の声も、自分に戸惑っている声だ。 「うん、どうしようか?」 互いにまだ視線すら合わせていない。 柏木はすぐ傍にいる。少し右に動けば肩が触れるだろう。 どうしよう。まじでどきどきする…… 心臓なんて、本当に口から飛び出しそうだ。 「早瀬さん。その、恋人になったなら、えっと、敬語はやめて、名前も、えっと、下の名前で呼び合ったりしちゃダメかな?」 たどたどしく提案してくる柏木。なんていとおしいのだろう。 やっぱり恋を知らないというのは本当なんだと、思う。そしてそれが自分でもバカだと思うほど嬉しい。 「直帆……」 呼んでみたはいいものの気恥ずかしくて、ヒロは抱えた膝に額を擦り付けた。 「……ヒロ」 「……うん」 「こっち向いて」 言われて、おずおずと顔を向けると、柏木は面映いような笑顔でこちらを見つめていた。また心臓が高鳴る。 見つめ合っていると、キスを意識してしまう。キスを意識すると、胸がきゅっと苦しくなる。キスひとつでうろたえる自分など考えられない。それでもそんな自分が、今は嫌ではない。 とまどいがちに距離が少しずつ縮められる。柏木の指先が膝を抱える腕に触れ、そのまま優しく握られる。軽く引き寄せられ、静かに目を閉じる。 甘いような香りが鼻先を擽る。 これが柏木の香りなのかと思うと、やけに興奮した。匂いがわかるほど、近くにいる―― 瞼も唇も微かに震えた。 その唇に、そっと柔らかい温度が重なる。 胸の辺りがきゅうっとなって、息が苦しい。 唇が離れて、ヒロは柏木の顔を見上げた。 「なんて顔してるの?」 困ったように柏木が言う。 「何? 変な顔してた?」 慌てて取り繕うとする間もなく、ヒロの身体は柏木の腕のなかに抱きとらえられていた。 「変じゃないよ。ただ、なんだか、こうしたくなるような顔だった」 言われて、カーッと全身に熱が昇った。 抱きしめたくなるようなって、そんな甘えた顔してたのか……? いつもとは逆だ…… あれ? ……待てよ。 「あ、あの……」 ヒロは恐々と声をかけ、少し柏木の胸を押した。 当然相手は不思議そうな顔をして、こちらを見つめてくる。ヒロが口を閉ざしたままでいると、柏木はどんどん心細そうな顔になる。それは経験のなさからくる不安であることはわかったが、簡単には口を開けない。それだけ重要で、慎重を要する内容なのだ。 「えっと、その……」 「うん……」 「柏木さ……直帆は、その、どっちがしたい?」 「え?」 全く意味がわからない、という反応が返ってくる。 そりゃそうだろう。男女の恋さえ知らないのに、男同士の恋愛に詳しいわけがない。ヒロだって熟知しているわけではないが、少なくとも役割があるというのはわかる。 「うんと、つまり、その……」 どう言えばいいのだろう? だいたい、まだそんなことを考える必要はないかもしれない。ヒロの頭のなかは随分先走っていた。 「だから、えっと……」 「ヒロ」 「な、なに?」 唐突に優しく呼ばれて、驚いて顔を上げた。 「なんだかわからないけど、俺はどっちでもいいよ」 柔らかい笑みを向けられて、ヒロは何も言えなくなった。 自ずとわかってしまったから。 頭で考えるまでもなかったし、あれこれと気を巡らせておいたのはバカだった。恋愛は頭でするものじゃない。今までのつけがこんなところでも露呈する。 「直帆……」 「なあに?」 「……もっと、キスして」 キスを強請ったのは、生まれて初めてだ。切実に欲しいと思ったのも、きっと初めてだと思う。 唇が塞がれる。二度目のキスは一度目よりはスムーズだったが、それでもまだたどたどしい、幼いただ唇を合わせるだけのものだった。 けれど、その唇を合わせるというだけの行為がこんなにも胸を焦がす。 恋を知らなかったのは、自分も同じ。 「どうしたの? ヒロ」 気がつけば、ヒロは柏木の腕を強く握っていた。 「ずっと、傍にいてくれる?」 腕を掴む力はどんどん強くなる。きっと柏木が痛いくらいのはずだ。でも、それを緩めることができない。 「いるよ」 抱きしめられ、髪を撫でられる。 「傍にいるから」 力強い声。 手放しで信じたくなる声。 「もっと……」 柏木の腕のなかで身じろいで、顔を上げる。優しい眼差しを受け止めて、小さな声で続ける。 「もっと、欲しい」 「え?」 本当は、もっとずっと先でいいと思っていた。でも、こうやって触れられているうちに、確実に欲望と呼べる感情が湧いて、身体のうちで膨れ上がっていく。それは単なる性欲ではなく、寂しさからくる衝動でもなく、もっとずっと深くて、それでいて本能的な触れ合いたいという欲望だ。 「でも……」 恋愛経験が未熟でも、柏木は大人だ。ヒロの言葉の意味をわかり、わかった上で困惑している。 「上手にできなくてもいいんだ。俺は直帆ともっと、一緒になりたい」 「ヒロ……」 少しの沈黙の後、柏木の指が戸惑いながらヒロの着ているTシャツの裾に触れ、静かに服のなかに潜ってくる。すっとわき腹を掠めた瞬間、ヒロは息を呑んだ。 肌をつたって上へ移動する指。どこを触ったらいいのか迷っているようなそれが、ふいに小さく尖った部分で止まる。ヒロが、微かな嬌声を上げたせいだ。 「男でも、ここが感じるの?」 聞きながら、柏木はそこを指の腹で軽く押したり指先で摘んだりするから、ヒロは喘ぎながら頷くしかない。 「可愛いね、ヒロ。そんなに気持ちいい?」 「あ……ゃ、……」 反応を見て、両手で両方の乳首を弄り始める。 「あぁ……ぅ……」 こんなに敏感ではないはずなのに…… 別にもともと不感症というわけではないが、いくらなんでもこれは感じすぎだと思う。 恋をすると、身体まで変化するものなのだろうか? 乳首を触られてるだけなのに、もう下肢は熱を持って、ともすれば腰を動かしそうになる。どうにかして欲しくて快感を与え続ける男を見上げる。 「どうかした? あ。ここばっかりじゃなくて、他にもどこか触ったほうがいい?」 優しくて、ちょっと間の抜けた言葉に頬が緩む。いとおしくて堪らない。 「もし……嫌じゃなかったら」 柏木の右手を掴んで、おずおずと下半身に誘導する。 「嫌なんかじゃないよ」 柏木が苦笑する。 「俺だって、触れたいって思ってるよ、ヒロ」 「直帆……」 泣きそうになった。 ほとんど無理やりに誘ったから、不安になっていた。柏木は優しいから断らないだろうし、自分もそこに漬け込んだような気がして、気持ちが、一方的に受け身になっていた。 「俺だってヒロが欲しい。不安もあるけど、それ以上に欲しいって思うよ」 そう言って、柏木はキスをしてくれる。ヒロは首に両腕を回して、勢いよく抱きついた。そしてそのまま、柏木を押し倒す形になったが、そんなことは気にせずに、跨ったまま胸に顔を摺り寄せた。 「大好き。直帆、大好き」 「うん。俺もだよ」 キスをする。何度も。ヒロが誘うと、柏木の舌が絡みついてくる。湿った音を響かせる。吐息が絡んで、熱を感じ合う。 濡れたキスは気持ちよくて、頭がぼーっとするほどだった。 柏木の手が伸びてきて、再び胸を弄る。 「んっ……」 思わず舌を強く吸い、鼻から甘ったるい声が漏れる。それだけでも堪らないほど感じるのに、柏木のもう一方の手が腿に触れ、ジーンズの上を滑る。 「んん……」 まるで焦らすようにゆっくりと、ゆっくりとその手は最も触れて欲しい部分へ向かっていく。 唇が離れ、互いに荒い息を継ぐ。 普段の優しい穏やかな眸には熱が宿り、見つめられるとどうにかなってしまいそうだ。 「触るよ?」 「う、うん……」 腿の付け根からゆっくりと動いて、柏木の手が熱くなった中心に触れた。 「あぁ……ん……ぁ……」 ジーンズの前を広げられ、下着の上から包むように握られる。痺れるような快感。柏木に触れられている下着はもう、うっすらと濡れている。その下着のなかに手が潜る。張り詰めた性器が直接握られる。 「はぁ……ん、だ、だめ……」 「あ。まだだめだった?」 焦って、柏木が手を放そうとする。 「あ、違う」 「え?」 本当にもう、どうしたらいいんだろう? こんなに可愛い人を、ヒロは知らない。 昂ぶった下半身は焦れていたが、心は寧ろ甘い感情で満ちていた。 「だめっていうのは、えっと、なんていうか睦言っていうか……だから、別に本当にだめなわけじゃなくて」 「そう? なら、触っていいんだね?」 不安そうな眼差しに頷きを返すと、遠慮がちに柏木の手が性器を扱きはじめる。 「気持ちいい?」 「…気持ち、いい……けど、俺…ばっかは、嫌だから、俺にも触らせて?」 腰を浮かして、返事を待たずに柏木の中心に触れた。 「直帆も、興奮してる……」 嬉しかった。 男の自分にちゃんと欲情してくれてるのが、すごく嬉しかった。 「あ……ヒロ…」 ジッパーをおろしてズボンと下着を下げ、性器を引き摺りだす。現れたそれは信じられないくらい綺麗で、でもやはり勃起していて、濡れていて……感じたことのない背徳感に震えそうになった。 扱きあげると更に張り詰めて、先端に蜜が溢れる。柏木が吐息を漏らす。感じさせていることが嬉しくて、ヒロは夢中になった。 茎を擦り、括れをなぞり、先端の指の腹で弄る。 柏木が熱っぽい吐息を漏らす度、ヒロは自分自身も熱くなっていくのを感じた。 「ヒ、ロ……そんなに、したら、俺が…触れない…」 手を掴まれ、動きを制される。かと思うと、引き寄せられ唇を重ねられる。 「ヒロ……」 耳元に唇を寄せて、柏木が名前を呼ぶ。そして…… 「……繋がるには、どうしたらいいの?」 どくん、と。 全身が脈打ったように感じた。 肩口に顔を埋めていて、柏木に顔を見られないのが幸いだ。どんな顔をすればいいかわからない。もしかしたら柏木も同じ気持ちかもしれない。だから耳元で囁いたのかもしれない。 「…後ろを、使うんだよ……ゆ、指とかで慣らしてから……」 「……大丈夫、なの?」 「……うん」 顔は見れないまま頷くと、ゆっくりと、今度はヒロが押し倒される。 見下ろされて、面映さに照れ笑いが浮かぶ。 セックスすることを愛し合うというけれど、その意味が初めてわかった。同時に、自分が柏木を愛しているということを実感し、胸がときめいた。 「いい?」 戸惑いながら、柏木が聞いてくる。彼の指先が双丘を掠めて離れる。それだけのことで、ヒロの口からは高い声が漏れた。 以前の自分とは、違う身体になってしまったみたいだ。 感じやすくて、その上貪欲だ。 頭のなかは柏木に愛されることでいっぱいだった。 気づけば離れていった指を求めて、腰を揺らめかせている。 「触って……」 どんな顔をして呟いたのか、柏木が一瞬目を見開いて、強く身体を抱きしめてくれる。 「ヒロ……ヒロ……」 蟀谷から耳朶、耳朶から首筋へと唇が滑り、肩口を軽く吸われる。その間、柏木の手は背中を這い、腰を撫でて、そのまま降りていく。 「な、お……」 「ヒロ……大好きだよ」 双丘の間を割って、指が奥まった場所を探る。戯れに触れられたことはあるけれど、その時はくすぐったいだけだった。けれど、今は…… 「あ……かん、じ……る」 ヒロが濡らした指で、ゆっくりと丁寧に開かれる。異物感と、それに勝る快感。胸が締めつけられる。痛いくらいにときめいていた。 長い指がなかに入ってくる感触が、ヒロをたまらなく興奮させた。 時折名前を呼びながら、柏木は慎重に蕾を暴いていく。 「あ――!」 その場所を掠めた瞬間、ヒロの口からは一際高い声が上がり、腰がびくりと震えた。 「ここが、いいの?」 聞かれて素直に頷いた。 柏木の指が、執拗にそこを突く。 溶かされていく。そこだけではなく、全身が溶けていくと思った。 「指、増やしてみて……」 不慣れな相手に教えるためではなく、欲望からそんな言葉が唇をつく。恥ずかしいことを言ったと自覚してさらに昂ぶり、中心の先からは絶えず雫が滴っている。 二本の指を呑み込んだ場所が、ひくひくと収縮しているのがわかる。柏木の指を締めつける度に快感が生まれる。 もっと奥へと誘おうとしているようだと思った。 自分のいやらしさを意識すればするほど感じて、おかしくなりそうだ。 「直帆、もう……指は、大丈夫……」 言葉に応じて、なかを蠢いていた指が抜かれる。 「……欲しい。直帆のが欲しい」 脈打っている柏木の下肢に手を伸ばして触れた。先走りで濡れたそれを手にした途端、欲しくて欲しくて堪らなくなる。 「俺も、ヒロが欲しいよ」 掠れた声で囁かれ、瞼が熱くなるのを感じた。 「大好き、直帆、大好き」 「俺もだよ。俺も大好きだよ、ヒロ」 戸惑いがちに、後孔へ柏木の熱があてられる。 唇を重ねながら、柏木が入ってくる。 直帆がなかに入ってくる―― どうしよう、俺―― 挿入の苦しさよりも、前立腺を刺激する快感よりも、胸をいっぱいにしている幸福感に蕩けてしまいそうだった。 「直帆、の……」 喘ぎながら、ヒロは必死で言葉を紡ぐ。だって、どうしても言いたい。どうしても聞いて欲しい。 「俺を……直帆のに、して……」 柏木の全てを包み込んで、ヒロは瞼を濡らして訴えた。柏木は優しく微笑んで、ゆっくりと、いいよと言って頷いた。 |