Scene 4 柏木直帆の元へ再び理が姿を見せたのは、翌々日の夕方。朝から篭っていた暗室を出て、一息入れるために飲む紅茶の葉を選んでいるところだった。 ドアを開けると、直帆の腰の辺りから見上げてくるいつものきらきらした笑顔と、その背後に見慣れぬ女性の姿があった。 「あの! はじめまして。私、理の母親で和崎風香と申します。えっと、いつも理がお世話になってます」 緊張した様子でそう名乗る彼女は、耳まで赤くしている。 「直帆さん。僕の母さんだよ。恥ずかしがり屋さんだし、直帆さんがかっこいいから緊張しちゃってるんだ」 理はにこにこして言い、母親の手をきゅっと握った。母親は俯いてしまっている。 突然理の母親がやって来て、直帆の方も緊張して理の言葉はほとんど聞こえていなかった。 「えっと……」 とりあえず、上がってもらったほうがいいよね…… 女性は苦手だ。 正確に言えば、女性が自分を苦手としているのだと思うのだが、どうも昔から女性には嫌われ易いようだ。長年そうやって避けられ続けていれば、いやでも苦手になってしまう。 「母さん、それ渡すんでしょ?」 「あ! そうだった! あの、これ私が造ったお花なんですけど」 差し出されたのは、ピンク色の愛らしい花の鉢植え。 「フロックスだよ、直帆さん。すごく可愛いでしょ? 母さんが作ったお花はどれもとても綺麗なんだよ」 理は誇らしげに胸を張る。 母親の話は理からたくさん聞いていた。職業はガーデナーであること。料理が上手で、優しくて、でもたぶん怒ると怖いから怒らせないようにしないといけないなど。 「そうだね。とっても可愛らしいね。ありがとうございます」 「い、いえいえ」 俯き加減で首を振る。理の母親というくらいだから、だいたい直帆と同年代だろうか? それにしては随分若い。もっとはっきり言えば幼い印象さえ受ける。裾にさりげなくレースの入った白いスカートと、桜色のシャツという服装のせいもあるかもしれないが、理の母親というよりは、お姉さんと言われたほうが納得できるかもしれない。 「母さんったら、上がりすぎだよー」 理が可笑しそうに笑い、母親はちょっと拗ねたような顔をして息子を軽く突っついた。 そんな可愛らしい仕草に、つい直帆も笑ってしまう。次第に緊張も解けてきた。 「あの……立ち話もなんですから、どうぞ上がってください」 「え、でも……」 母親は渋ったが、理はもう靴を脱ぎかけている。 「このお花の世話の仕方も教えていただきたいし」 「ね、母さん。直帆さんにプリンの作り方教えて貰いたいって言ってたじゃない。教え合いっこしたらいいじゃん」 透明なポットのなかで泳ぐ紅茶の葉を眺めながら、直帆は楽しい気分になっていた。こうやって誰かのためにお茶を用意するのが、直帆は大好きなのだ。 ここのところ来客が多いから、その大好きな時間も多く持てる。 もともと交友関係は決して広いとは言えない上に、写真家という仕事柄ひとりで過ごす時間ばかり増えて、鬱々となり始めていた頃に、理に出会った。そんな時だったから、公園のベンチにぼんやり座っているところへ急に声をかけられる、というナンパのような出逢いでも、直帆はほとんどすんなりと、この少年と友だちになれたのだろう。 「母さんがね、僕にこんな素敵なお友だちがいるなんてびっくり、だって」 クッキーを添えたティーカップを並べて、直帆がソファーに腰を下ろした途端に理が言った。横で母親が、彼の肘を小さく小突いて、ますます俯いてしまった。 「素敵だなんて……そんな持ち上げていただかなくていいんですよ」 「別に持ち上げてるわけじゃ――」 「母さん、無駄だよ。直帆さんって自分がかっこいいっていうことわかってないみたいだから」 理の言葉に、直帆と風香はそれぞれ首を捻った。ただし、全く別の意味合いで。 「かっこいいってどういうこと?」 「わかってないってどういうこと?」 ふたりの台詞は見事に重なったが、理は落ち着いて答えた。 「母さん、こういうことだよ。直帆さんはこんなにかっこいい人なのに、自分では全然そんな風に思ってないんだよ。直帆さん、直帆さんは僕たちにはすごくかっこいい人に見えてるんだよ」 えー? という声がまた重なる。 かっこいい人に見えてるって、一体なんのことだろう? 「背が高いから?」 直帆は小首を傾げた。本当に意味 がわからないのだ。 「本当に、自覚がないんだ……」 理の母親が、しみじみとした調子で呟いた。あちらは納得したらしいが、直帆は依然釈然としていなかった。 「直帆さんは自分ではわかってないだけで、本当はすっごくかっこいいんだよ。テレビに出てる人なんかより、ずっとかっこいい」 「もう、理君本当になあに? 俺がかっこいいだなんて、お世辞にも無理があるよ」 そう言って笑ってみせると、理はやれやれという風に軽く両肩を上げたが、すぐに諦めたのか話題を変えた。 「そうだ! ねー、直帆さん。この前可愛い犬の写真撮ったって言ってたよね? 母さんね、すごい犬好きなんだ。見せてほしいなー」 「ああ、うん。いいよ。じゃぁ、取ってくるね」 「僕もついてっちゃだめ?」 「いいよ。おいで」 かっこいいなどと言われて混乱したことは、既に頭の隅の隅に追いやられていた。こういうことは過去に何度かあったが、その度に直帆は本気には取り合わず、相手を諦めさせてきた。 何の為に無理のあるお世辞を述べるのだろう? 直帆の疑問といったら、そこに尽きた。 自分の容姿をいいと思ったことなど今まで一度もないし、むしろ嫌いだと言ったほうが正しい。表情の乏しい自分の顔はどうしても好きになれない。友だちができないのさえ、この顔のせいではないかと思っているくらいなのだ。 物心ついた頃から、家族と親友一人を除いて、直帆の傍へ好んで寄ってくる人物はいなかった。嫌われるようなことをした覚えはないから、きっと外見がいけないんだとほとんど結論付けた。そんな思いを二十年近く持ち続けているものだから、それが相当な固定観念になっていて、ちょっとやそっとでは揺るがない。 「昨日プリントしたところだから、まだ暗室にあるんだ」 言いながら物置を改造した暗室のドアを開け、室内灯をつける。納得のいくいい色に焼けた写真を思い出して、口元に知らず笑みが浮かんだ。 「ねー、直帆さん」 暗室のなかに入るなり、理が小声で名前を呼んだ。 「なあに?」 振り返ると、理は今まで見たことのない神妙な顔をして立っていた。 「どうしたの?」 心配になって顔を覗き込む。 「伯父さんに会ったでしょ?」 「うん。会ったよ」 「あのね……」 不安そうな表情に、直帆は大人気なく慌てそうになる。 しっかりしていてもまだ子どもの理がこんな顔をするなんて、一体何事かと思っていると、 「伯父さんに気をつけてね」 予想外の、それも意味不明なことを言われて、きょとんとなる。そんな直帆に構わず、理は続ける。 「伯父さんね、アソビニンなんだって。悪い人なんだよ、きっと。だから気をつけて欲しいの」 その表情から、真面目な話だとわかるけれど、直帆にはどうも腑に落ちない。子どもの口から遊び人なんて言葉が出てくることもびっくりだし、理が人のことを、まして親戚を悪く言うなんて思わなかったのだ。 「理君……伯父さんのことそんな風に言っちゃだめだよ」 「でも……」 屈んで目線を合わせると、理が泣きそうな顔になって、俯いた。 「伯父さんに怒られちゃった?」 怒られて拗ねているとしか思えなかったのだが、理はきっぱり否定する。 「違う。そんなんじゃない。ただ僕は……」 ぽんぽんと軽く頭を撫でて、小さな両肩にそっと両手を乗せた。 「大丈夫だよ」 眉を八の字にした理が顔を上げる。 「心配してくれてるんだね。ありがとう。でも、大丈夫だからね」 もちろん、真剣にそう思っていたわけではないが、目の前の幼い友人を元気付けたい一心で、直帆は微笑んだ。 すると、理の顔にも笑顔が浮かぶ。 「ありがとう。直帆さん、大好き」 |