Scene 6


 腕時計を見ると、時刻は午後五時十分過ぎだった。
 鞄から綺麗な写真のプリントされたハガキを取り出し、場所を確認する。個展が開催されているギャラリーはすぐそこだ。
 急に緊張してきて、ヒロはショーウィンドウの前でネクタイを緩めたり、締め直したりした。ついでにスタイリングし直した髪をチェックする。
 あの日以来、ずっとこの日を楽しみにしていた。憧れの写真家の写真展。おそらくまだ見たことのない写真も展示されているだろう。
 この日に合わせてスケジュールを組み、初日である今日は仕事を早めに切り上げた。こういうところは個人事務所の利点だ。

 ゆっくり歩を進めて、ギャラリーの前へと向かう。大袈裟ではないシンプルな看板が出ている。
 柏木直帆写真展。
 その看板を見ただけで、ヒロの心にはじわりじわりと感動が湧き上がってくる。こんな興奮はそうそうない。
 ガラスドアを引いて、なかへ足を踏み入れる。
 壁という壁に美しい写真の飾られた部屋。
 モノトーンなのに柔らかくて温かみがある、優しい写真が何枚も穏やかな光に照らされている。

 胸の高鳴りを感じた。
 こんなに優しい空間があるのか――
 そんな感激が心に押し寄せてくる。
 日本ではない町の風景や、波打ち際の一瞬。小さな花や、葉の茂る木々。
 時間をかけて一枚一枚見て、一枚一枚に感心していたヒロはふいに、二メートルほど先に柏木直帆がいることに気づいた。

 心臓の鳴る音が一段と大きくなった。
 今日柏木に会うかもしれないことは、予想していた。でも、実際目の前にすると慌ててしまう。
 やっぱり、自分は変だ。
 この二週間の間も、柏木のことが何度も過ぎり、また例の焦燥感に見舞われていた。
 どうかしている。
 会わないでいれば薄れるかと思っていたのに、逆に日を増すごとに心のなかで柏木の占める割合が膨らんでいった。

 どきどきどきどきと、全身に鼓動が広がっていくような感覚。
 黒っぽいスーツを着た男と親しげに話している柏木は、まだこちらには気づいていない。
 どうしよう――?
 このままそっと帰ってしまえば、顔を合わせないですむ。のちに電話でもして、行ったけど忙しそうだったから声をかけなかったと言えばいいだけだ。
 普段のヒロではありえないほど消極的な考えしか浮かんでこない。

 スーツの男が腕時計を確認して、柏木に何か伝える。その後柏木が何か言い、ふたりして出入り口に向かっていく。どうやらスーツの男はもう帰るらしい。柏木はまだこちらには気づかない。  ヒロの身体と顔と目は写真を熱心に見てるふりをして、心と神経はほとんど柏木直帆に注がれている。
 出入り口は丁度ヒロの真後ろで、柏木の姿は横目でも見れない。かといって振り返る勇気も出ない。
 と、とりあえず……
 足を横滑りさせて、隣の写真の前に移動する。ギャラリーのなかにはヒロの他に数名いるが、当然皆静かに鑑賞しているので、とても静かだ。
 その静寂が緊張を強くする。
 そっと、もうひとつ横の写真の前に移動しようとした時、

「早瀬さん?」
 優しいトーンの声が聞こえた。
「あ、ああ。柏木さん」
 ヒロはさも今気づいたようなふりをして応えた。
「来てくれてたんですね」
 そう言って、ふわりと微笑む。
「すごく素敵ですね、どれもこれも。感動しました――」
 それは本心なのだが、なんとなくその場凌ぎのようになったなと、自分で感じた。
 実際、ヒロは写真より柏木直帆自身に見蕩れていたのだ。

 ブルーのピンストライプが入った白いシャツに、黒のコットンジャケットと黒のパンツ。髪の毛は軽くサイドに撫でつけられていて、前会った時よりさらに、男前度がアップしている。
「そうですか? ありがとうございます。でも、あんまり誉められると照れますから、その辺にしておいてください」
 柏木は照れて笑う。出逢った時と同じようで違う笑顔。すごく綺麗でどきっとさせられる――
 こんなに余裕のない自分は初めてだ。
 そわそわとして落ち着かず、話題を探した。

「これはどこで撮った写真ですか?」
 ヒロは目の前に掛けられている、石畳の上で昼寝する猫の写真を指差した。
「ああ、これはスペインです」
「スペインかー。いいなー……」
「スペインお好きなんですか?」
 訊かれて、ヒロは頷いた。
「行ったことはないんですけどね……俺は元々ガウディに憧れて建築家になったくちだから……サグラダ・ファミリアとか見ました?」
 話しに夢中になれば、少しずつはリラックスしてくる。

 頭や心臓はとても平静ではなかったが、なんとか口だけは動く。
「見ましたよ。思ってた以上に大きくて圧倒されました。あと、カサ・ミラも素敵でした。写真でも撮ってれば、お見せしたいところなんですが……」
「写真、撮ってないんですか?」
「ええ。見るだけで満足しちゃって」
「そうなんですか」
 ヒロはかなりがっかりしていた。柏木のとったガウディの作品。見てみたくないはずがない。きっと他の誰が撮った写真より、素晴らしいに違いない。

「よっぽどお好きなんですね」
 肩を落としている様子は柏木にも伝わったみたいだ。
「もちろんですよ! 柏木さんの写真は俺にとってすごく特別なものなんですから!」
「あ、いえ…あの……」
 おかしなことを言ったつもりはないのに、柏木は困ったように笑う。
「その、ガウディのことだったんですが……」
 そう言われて、ようやく自分の勘違いに気づいた。と、同時にいたたまれなくなって、ヒロは顔から火が出そうになった。
 どうも柏木の写真のことになると興奮してしまって、暴走しがちだ。こんなんじゃ、まるで大好きなアイドルに対面した乙女だ……
 二十五の男が何をやってるんだか……

 反省のあまりしょぼくれていると、助け舟を出すように柏木が明るい声を出した。
「そうだ、早瀬さん。この後空いてませんか?」
「え? 空いて、ますけど……」
「よかったら、一緒に食事に行きませんか?」
「え?!」
 全く予想もしていなかったことに、ヒロは素直に驚きの声を上げた。
 キャーという悲鳴じゃなかっただけましだ。

「あの、えっと……実はこの後友人と食事に行く約束をしていたんですが、急に仕事が入ったらしくて……一応予約しちゃってるから、よかったらどうかなと思ったんですけど……」
「あ、はい。あの、ちょっと急だったからびっくりしたっていうか……」
 どぎまぎして、ヒロの視線は絨毯の敷かれた床を彷徨った。
 どうしよう。
 思ってもみなかった展開だ。外面はせいぜい落ち着いているふりをするよう努力していたが、内心のうろたえようは相当なものだった。
「ご迷惑だったら……」
「め、迷惑だなんてことないです、全然。連れて行ってください」
 柏木の申し訳なさそうな声に慌てて、ヒロはすぐさまそう返した。



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