Scene 7 「本当にすっごく美味しいですね」 白ワインの入ったグラスを口元に運びながら、ヒロはもう何度目か知れない台詞を口にした。 都心からそう離れていない場所にある、鉄板焼きレストラン。落ち着いた照明に照らされる家具はどれも黒基調の品のある店内。ヒロたちが通されたのは奥の半個室になっているテーブルだった。 鉄板焼きといえばカウンター席というイメージが強いが、こういう寛げる雰囲気で食べるのも違った楽しみがある。 前菜から始まって、メイン、ガーリックライスまで、それぞれに他の店とは違う工夫が見えて、すべてが美味しかった。だからヒロは何度も同じ台詞を言わなくてはならず、柏木もその度に、 「喜んでもらえて嬉しいです」 という台詞を繰り返さなければならなかった。 席に着く前にわかったことだが、この店のオーナーシェフは柏木の兄が勤めているらしい。 店に入って、カウンターに立つコック帽を被ったシェフを見た瞬間、ヒロは柏木との血縁を確信した。 顔が似ている似ていないではなく、こんな美形二人が他人同士のわけがないと思ったのだ。 「もし、早瀬さんにお会いするのがもう少し早かったら、この店のデザインも早瀬さんにお願いしたかったところなんですがね……」 「え? なんですか、急に」 社交辞令かと笑って返すと、柏木は思いのほか真剣な顔をして意外なことを言った。 「僕ね、早瀬さんのファンになったんです」 一瞬思考が停止して、ヒロはぽかんとした。 「それいゆってカフェを拝見して、一目で気に入ってしまって。なんというか、とても感激したんです。モダンだけど、温かで……」 「えっと……ありがとう、ございます」 お世辞ではない誉め言葉に照れて、ヒロはワインをぐいっと飲んだ。 最初会った時、ヒロが一方的に柏木のことを誉め、恥ずかしがっていた彼の気持ちがわかった。 いや、たぶんそれ以上だ。 ずっと憧れてきた人に誉めてもらえたのだから。今にも嬉し泣きしそうだ。 「でも、どうしてあれを俺が作ったってわかったんですか?」 「ああ、教えてもらったんです。早瀬さんのお兄さんに」 「お…お兄さんって……」 今のは聞き間違いだっただろうか? いや、聞き間違いじゃないはずがないし、そうじゃないと―― 「ええ、瑞月さんです」 ――嘘、だろ…… 「そういえば、この間風香さんにもお会いしましたよ。早瀬さん、三つ子だったんですねえ」 ほのぼのとした柏木の声はもう耳に入っていなかった。そもそも妹に会ったことなどは、この際取るに足らない。 今問題なのは、瑞月という災厄のワードの一点に尽きる。 なぜ瑞月が柏木さんに会っているんだ? 瑞月は京都にいるはずだし。そもそも、柏木との接点が見えなさ過ぎる。 何もかも、符号が合わない。 相手が瑞月だけに、不気味だった。 瑞月は確かにヒロの兄弟だが、一般の兄弟とは全く違う兄弟だ。というよりもう、次元が違う。好きとか嫌いのレベルじゃなく、はっきり言ってヒロは瑞月を恐れていた。 風香とヒロは仲がいいし、風香と瑞月もうまくやってるみたいだが、ヒロと瑞月だけは別。 何もかもが正反対で、瑞月はヒロにとってエイリアンのような存在なのだ。 わからないだけならいいのだが、瑞月は外面ばかりは気持ち悪いくらいにいいが、間違いなく腹黒い。裏表がありすぎる。まるで聖人のような顔をして、平気で人を蹴落とすようなヤツなのだ。 その上―― 「早瀬さん?」 「へ?」 「あの、どうかしました?」 気がつけば、頭が完全に瑞月に侵略されていた。 「あ、いえ。すいません。なんでしたっけ?」 「三つ子だったんですね? っていう話です」 心配そうな顔を向けられて、ヒロは背筋を伸ばし、こっそり深呼吸をした。とりあえず瑞月のことはできるだけ頭の隅に押しのけようと頑張った。 「柏木さんは、ふたり兄弟ですか?」 強引に話の矛先を換えようと試みてみる。 「いえ、僕も三人です。兄の他に弟がいます」 丁度その時、柏木の兄が自らデザートを運んできた。温和な笑みを浮かべて、静かにアイスクリームをテーブルに置いた。 挨拶は来店した際に済ませていたから、ヒロは短く料理の感想を述べた。 「またいつでもいらしてください」 柔らかな声でそう言って、軽く頭を下げてから柏木の兄は席を離れた。 「柏木さんは、やっぱりよく来るんですか?」 「そうですね。月に何度か」 「仲が、いいんですね」 入店した際にふたりが会話を交わしている様子も、今さっき微笑みを交わしていた感じも、いかにも仲のいい雰囲気だった。 「まあ、そうですね。……兄は、共犯者ですから」 「共犯者?」 飛び出した意外な単語に、アイスクリームを掬おうとしていたヒロの手が止まる。 「僕も兄も、実家を飛び出してきちゃったくちなんです」 ひと口アイスクリームを味わってから、柏木はそう言った。 「飛び出してって?」 柏木も柏木の兄も、ふたりともおっとりした雰囲気だし、口調や仕草も柔らかいので、そんな行動はあまり似合わないような気がするのに…… 「飛び出したというか……実家がね、京都なんですけど、日本舞踊をやってまして、本来なら僕たちが継がないといけないんですよ。でも、兄は料理に、僕は写真に夢中になってしまって……上京してからはふたりとも家には帰ってないんです。だから、共犯者」 軽く両肩を竦めて、柏木は笑顔を見せた。けれど、その笑顔はいつもの穏やかなものではなく、苦さがあった。 しまったと思った。 共犯者というあまりに突飛な単語に驚いて、つい訊き返してしまった自分を恥じた。 「あの……」 謝ろうか、それとも話題を換えようかと考えていると、柏木はまた少し笑って言う。 「すいません。少し酔ってるのかな? こんな話してしまって……」 「いえ、そんな。気にしないでください」 「食後のコーヒーも、お勧めなんですよ。もうすぐ運ばれてくると思いますけど」 柏木が自ら話題を逸らして、今度はにっこりと優しく翳りのない笑みを浮かべた。それに笑い返しながら、ヒロはまた一段と高鳴っている心臓を意識していた。 頭には、さっき見た柏木の撮った写真が浮かんでいた。 あの写真の独特の暖かさは、きっと柏木という人間そのものの温度なんだろうと思った。 繊細で優しくて、何よりその純良さがああいう作品を産みだしているに違いない。 だからこそ、自分はあの写真に魅入られる。 乾いた土が水を求めるのと同じように。 柏木の予言どおり、間もなく食後のコーヒーが運ばれてきた。確かにすごくいい香りが漂っていて、美味しそうだ。その香りが、ヒロの忙しない胸にじわじわと染み込んでいった。 |