Scene 8


 少し欠けた月が、空に浮かんでいる。
 駅から離れて、静かになった夜道は点々と立っている外灯が照らしている。

「夜の散歩にはまだちょっとだけ寒かったですね」
 柏木が少し申し訳なさそうに言った。
「俺は平気ですよ。月も綺麗だしね」
 月を指差して笑うと、柏木も安心したように笑った。

 電車を降りてから、柏木はどうせなら歩いて帰りませんか、と言ってきた。ふたりの家はそう離れておらず、駅からも歩いて十五分ほどの距離にある。
 ヒロはすぐに賛成した。タクシーであっという間に帰ってしまうのが嫌だった。

「本当にうまかったなー。コーヒーも最高だったし。俺通っちゃいそうです」
「是非通ってください。早瀬さんみたいなお客さんが常連になってくれたら、兄も嬉しいと思います」
「俺みたいなって?」
 ヒロが不思議に思って問い返すと、柏木は愉しそうに笑った。
「だって、早瀬さんってすごく美味しそうに食べるから。僕だったら自分の作ったものを、あんな風に食べてもらえたらすごく嬉しい」
 そう言われて、顔に熱が昇ったのがわかった。
 向かい合って食事すれば当然のことなのだが、顔を見られていたというのが無性に恥ずかしい。
「だって、うまかったから」
 小さな声で言うと、また柏木がくすりと笑う。

 なぜこの人はこんな風に優しく笑えるのだろう?
 例えば、今柏木が実は自分は天使なんだと告白したら、たぶんヒロは疑わないだろうと思う。
 そんなことを考えていると、後ろから車が走ってくる。ヘッドライトに照らされる柏木が、ふいに幻のように見えて、ヒロは胸が苦しくなった。

「柏木さん、あの……俺柏木さんの写真好きです。だから、その……俺は柏木さんが写真家になってくれてよかったって思います」
 言い知れない不安が突然襲ってきて、気がつけばヒロはそんなことを口走っていた。
 テールライトを見せて、車は走り去っていく。
 ふたりの足は止まっていた。
 月明かりと外灯の照明に照らされた柏木の顔には、驚きと困惑の色。
 当然だ。
 自分でも何を言ってるんだと思う。
 ヒロはいてもたってもいられなくなった。

「すいません、急に……」
「いえ……嬉しいです」
 ほっと心を撫でるような声が届く。続けて、
「いつか、一緒に仕事したいですね」
「一緒にって、俺の建てたものを撮ってくれるってことですか?」
 思わず大声になった。
「はい。撮らせてほしいです」

 これは夢なのだろうか?
 夢なら覚めないでと、叫びたいくらいの歓喜が胸に溢れた。
 柏木は微笑んでいる。本当に夢みたいに綺麗な笑みだ。

「絶対、絶対ですよ?」
 分かれ道に着くまで、ヒロはそう言って何度も念を押した。その都度、柏木は飽きもせずに頷いてくれた。
 今夜ほど、神さまに感謝したいと思った日は今までも、これからもきっとないと、ヒロは思った。



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