Scene 10 「ねえ、薫さん」 語尾にハートマークでもついていそうな呼びかけに、薫の眉間の皺が深くなる。 月曜日の朝。朝一の会議のため、会議室へ向かう廊下にはそんなふざけた声と、ふたりぶんの靴音が響いていた。 黙って返事をしないでいると、 「ねえってばー、かーおーるーさーん」 一層ハートマークが増えた。 「名前で呼ぶな。俺はお前の上司だぞ? 代理、と呼べ」 一応もうひとつの呼び名として、副社長というのもあるが、みんな短い方が言いやすいだろうと、薫自身が代理と呼ぶように社員に伝えてある。だから社内の人間はみな代理と呼ぶのが普通なのだが、さっきからうっとうしく付き纏ってくる男だけは例外だ。 「えー、いいじゃないですかー?」 「よくない」 「けちんぼー。まだ怒ってるんですか? 歓迎会の夜のこと」 あのセイレーンの声を思い出して、ぞくりと震えそうになる。 怒っていないはずがない。 悪ふざけにも程がある。 とはいえ、今はそれどころではない。 「お前なー」 歩みを止めて振り向くと、橘がにこりと微笑み小首を傾げる。 「なんですかー?」 「今から行われる会議が大事な物だっていうことぐらい、わかってるだろ?」 「ええ、わかってますよ。中国をはじめとするアジアにおける我社の新戦略を話し合う大事な会議ですよね」 橘はにこにこしたまま言った。 「わかってるなら、いつまでもふざけるな」 「ふざけてるわけじゃないですよ」 「そうか。それは随分余裕なことだな」 いつも冷静な薫でさえ、今日ばかりは緊張している。昨夜から今朝の会議のことを考えすぎて、あまり眠れてもいない。眠れていないのは、会議ばかりが原因ではないが…… とにかく、今回のプロジェクトはそれほど重要なのだ。 「余裕なんじゃなくて、代理を信頼してるからですよ」 急に真面目な顔をしてそんなことを言われ、薫はどう返していいかわからなかった。 「代理が優秀だから、俺は安心して、せいぜい代理の無駄な緊張感を払ってあげられるんですよ」 「き、緊張なんか別にしてない……」 ふいと顔を背ければ、頬を指で突かれる。 「薫さんのいじっぱりー。そういうとこ可愛すぎですよー」 「うるさい。お前、ふざけるのもいい加減にしろよ。俺は曲がりなりにもお前の上司だぞ。もうちょっと敬意を払ったらどうだ?」 「払ってますよ?」 けろり、という表現が実にぴったりな調子で言う。本当に、この男は。もう付き合いきれん、そう思って前に向き直ろうとしたのだが、橘の言葉はそこで終わらなかった。 「敬意を抱いてるから、ここで働いてるんじゃないですか。入社前から尊敬してます」 「え?」 薫は弾かれたように顔を上げ、自分を見つめる真っ直ぐな目を見た。 「俺は、世襲制っていうのが嫌いなんです。だから、最初は社長があっさり息子に継がせた会社なんて嫌だなー、って思ってたんです。でも、調べてみたらそうじゃなかった。代理は入社の際、ほとんど倒産してるような会社を立て直したんでしょ? それに、今回のアジアへの進出も代理が進めてきたプロジェクトだし、とても尊敬してますよ?」 これもまた、けろりと言う。 何を当たり前のことを? とでも言うような顔だ。 薫のほうが変に気恥ずかしくなって、視線が泳いだ。 「薫さんったら、照れちゃって可愛いー」 「う、うるさい。いつまでもふざけてないで、行くぞ、バカ」 本当に、この男は…… 入社前、父である社長から傾いた会社を立て直してみせろと言われ、大学を出たばかりでなんの経験も知識もない薫が、見事倒産寸前の中規模の会社を建て直し、今では中小企業とは呼べなくなるまでに成長した、というのは社内でも有名な逸話だ。 そういう実績を示したからこそ、社長はさっさと権限を薫に引渡し、社内の人間もそれを認めざるを得なかった。 橘の言うことは全て事実で、今までいろんな人から讃えられてきたが、こう改まって尊敬している、などと言われるとどう反応したらいいかわからない。 それも、いつも飄々としていて、自分を馬鹿にしているんじゃないかと思っていた相手だけに当惑する。 本当に、わからないやつだ。 薫はそっぽを向くように、前に向き直りつかつかと歩き始めた。 「ねえ、代理」 「なんだ?」 振り返らないまま返す。 「今日の会議、うまくいったらご褒美くださいよ」 「はあ?」 振り向いてみれば、橘は意外に真面目な顔をしていた。 「食事に連れていってください、代理」 薫は眉間に皺を寄せ、考えた。 急に何を言い出すんだ、と思わなくもなかったが、同時にいい機会かもしれない、とも思った。橘が来てから今日で一週間経つが、その間薫はずっと彼を避け続けた。それは当然ではあるが、このままずっと避けていくというわけにもいかない。 会社を離れたところで、一度きちんと言い聞かせておく必要がある。 「いいぞ。うまくいったら、今夜連れていってやる」 いろいろな思惑を含みながら薫がそう言った時、橘が意外そうな顔をして驚いたので、薫はなんとなく愉快だった。 |