Scene 9


 病院を後にする足取りは重たかった。
『全く可能性がないというわけではないんですよ』
 医者が最後にかけてくれた言葉も、薫には気休めにもならない。
 百合子にどう説明しようか……?
 薫の頭のなかでは、診察室で聞かされた耳慣れない単語がごちゃごちゃと散らばり、拾い集めて文章にするのは困難だ。

 結婚して二年。未だに子どもができないのはおかしいと、先に検査に行ったのは百合子だった。考えてみれば、百合子に異常がなかったのだから、自分に問題がある可能性は限りなく高かったのに、薫は心の準備ができていなかった。
 まだ受け入れられない。
 自分のせいで子どもができないなんて、悪い冗談だろう? と誰ともなく問いつめる。

『治療は簡単ではありませんが、全く方法がないというわけでもないんです。ICSIという画期的な治療法がありますから……』
 医者はなんとか希望を持たせようとしてくれたが、成功率は三十五パーセント程度だという。
 確かに諦める数字じゃないが、薫には六十五パーセントの失敗率のほうが重くのしかかっていた。
 それでも、なんとか百合子に説明して納得させなければならない。それだけじゃない。現社長である父親にも、言わないわけにはいかない。

 薫はため息をつきながら、車のドアロックを解除して運転席に乗り込んだ。
 家では百合子が待ちかねているはずだ。
 薫は緩慢な仕草でシートベルトをしめて、エンジンをかけた。



「でしたら、失敗する可能性は六十五パーセントですね」
 その冷たい声は、たぶん一生忘れないだろうと思うほど、薫の胸を鋭く抉った。
 薫が思っていた通り、珍しく在宅して帰りを待っていた百合子の反応は、想像より遥かに厳しかった。
「こんなことなら、もっと早く検査してもらうべきでしたわね。今まで何回無駄な性交渉を繰り返してきたことか」
 百合子は本気で嘆いていた。
 その眼差しには、隠せない軽蔑の色が窺える。
 酷い女だ、と思いはするが、事実だけに言い返すこともできない。
 責任は薫にある。薫の、せいなのだ。

「もう、うんざりです」
 彼女はそう言って、椅子から腰を上げる。
 またどこかへ出かけるのかと思いきや、自室に向かい、間もなく茶封筒を手に出てきた。
「貰ってきておいて、正解でした」
 まさかな――
 封筒から、百合子の白い指がその指よりも白い紙を取り出す様は、まるで現実味がなかった。

 まさかな。
 そう思っていたことが現実になる。
 白い紙に緑の印刷。
「私の書くべきところは、全て記入済みですから、後はよろしくお願いしますね」
 言葉も出ない。
 まさか。
 まだそう思って、動けない。
 離婚届。実物を見るのは初めてだ。こんな薄っぺらい紙が、人生を決める。そして、それが今、薫の目の前に差し出されている。
 有り得ない。

「言っておきますけど、話し合いなんて応じませんよ。もう、決めたことですので」
 一方的に言い捨てて、百合子は背中を向けた。
 玄関のドアが開閉する音がして、はっとなる。
 テーブルの上に載った紙切れを見ているうちに、薫は可笑しくて堪らなくなって笑った。

 有り得ない。
 こんなこと、有り得ない。
 俺は一ノ瀬薫だぞ。
 こっちからこれを突き出すことはあっても、向こうから出されることはあってはならない。あの女は一体何を考えてるんだ?馬鹿じゃないのか?

 押しつけられた現実の痛さを回避する方法は、こうやって笑って、否定するぐらいしかない。
 俺は望めば、世界中の女が振り向いたっておかしくないような男なのに、百合子は血迷っている。何不自由ない生活と、一ノ瀬インダストリーという大企業の社長代理夫人というステータスを与えてやった上に、社長夫人だって、目の前だ。
 馬鹿だ。

 俺と寝たいという女は五万といるというのに、あの女は馬鹿だ。
 そうだ、あの女が間違っているだけだ。
 俺は間違っていない。
 だって、俺は一ノ瀬薫なんだからな。

 薫はそう結論付けて、白い紙切れから目を逸らした。



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