Scene 11


 案内された個室に入って薫が見たものは、実に異様な光景だった。驚きのあまり、しばらく引かれた椅子に座るのを忘れるほどだった。
 コースが基本のイタリアンの店で、先に店に着いていた橘はデザートを食べていた。

「お前、まさかもう全部食ったのか?」
 そんなはずはないだろうと思いながらも問い、薫は腕時計を見た。
 退社後、私用で少し遅れはしたが、フルコースをデザートまで食べてしまえるほどの時間差はなかったはずだ。
「まさか、そんなはずないじゃないですか。甘いものが食べたかったから、先にデザートを持ってきてもらったんです」
 その橘の言葉は、薫をますます混乱させた。
 デザートを先に、だと?
 確かに、遅くなるようだったら先に食べ始めていてもいいとは言ったが、デザートからだなんて、予想を超えすぎだ。

「これ、すっごく美味しかったですよ、薫さん。デザートって追加できないんですかねー?」
 薫が唖然としている間にも、橘は綺麗にデコレーションされていたティラミスを食べ終えて、嬉しそうににこにこしている。
「お前、飯、食いに来たんだよな?」
「え? そうですよ? どうしてですか?」
 橘はきょとんとしている。
 薫が言葉に窮していると、給仕係の女性が現れて、前菜からお持ちしてよろしいですか、と訊いてくる。
 わざわざそんな風に訊かれたことも初めてで、薫のほうが恥ずかしくなってきた。

「橘、お前、何かの嫌がらせのつもりなのか?」
 給仕係が出ていくのを見届けてから、薫は恐る恐る問うてみた。
「嫌がらせ? 何がですか?」
「何がって、デザートを先に食べたりして、おかしいじゃないか」
「ああ。でも、食べたかったんですもん。食べたいものを食べたい時に食べるのが、いちばん美味しいでしょ?」
 そう断言されると、もう言う言葉がない。
 そうこうしているうちに、ソムリエがワインを持って入ってきたり、前菜が運ばれてきたりして話はうやむやになり、美味しい美味しいと嬉しそうに微笑む橘の顔を見てるうちに、どうでもいいかと思うようになった。

 変わったやつだ。
 ナイフとフォークの使い方ひとつとってみても、育ちは決して悪そうではない。それに、前の会社もかなりの大手で、そこの社長秘書をしていたなら、相当な回数、食事やパーティーに参加しているだろう。マナーは心得ているはずだ。
 なのに。
「ああ、ちょっと食べすぎたかも」
 と言って、下を向いてごぞごぞしだしたので、何をしているのかと見れば、橘はベルトを緩めていたりする。

「お前……」
「あ。見つかっちゃいました?」
 照れ笑いを浮かべはしたがそれだけだ。そこまで恥ずかしいことだとは思っていないらしい。
 じっとそんなことを分析していると、ふつふつと笑いが込み上げてくる。
「なんですか? そんなにダメでした? ベルト緩めるの。でも、緩めたっていっても、ひとつだけですよ?」
 拗ねたような弁解が、さらにおかしい。笑いが止まらなくて、涙まで浮かんできた。
「そんなに笑わなくたっていいじゃないですか、もう」
 橘はそう言って、ワインをぐいっと飲んだ。

「橘。さっきのデザートそんなにうまかったなら、俺の分をやってもいいぞ」
「え! 本当ですか?」
 そっぽを向いていた顔が、瞬時にこちらを向いた。また笑いそうになりながら頷くと、橘は瞳を輝かせた。
「薫さん優しいですね。俺のために――」
「勘違いするな。甘いものが嫌いなだけだ」
 素っ気なく言い退けると、おもしろいぐらいがっかりした顔をする。が、すぐにけろりとした顔をして、
「照れてるんですね、薫さん」
 なんてことを、揚々として言う。
 一体どういう思考回路をしているのだろう? 間違いなく、薫のとは全然違うはずだ。

「俺に見蕩れてどうしたんですか? 薫さん」
「み、見蕩れてなんかない!」
 本当に、この男は―― 



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