Scene 12


「ホントにこのまま帰っちゃうんですか?」
 タクシーのなか。橘がこう言うのは、乗車してまだ十分も経っていないのに既に三度目だった。
「しつこいぞ。明日も仕事だろ?」
「じゃあ、ちょっとうちでお茶だけでも飲んで行ってくださいよ」
「行くわけないだろ?」
 それだけ冷たく言ってやると、橘は沈んだ顔をして黙った。

 薫は決して馬鹿じゃない。
 ふらふらと橘の部屋に行って、痛い目を見たのはほんの三日前だ。外で食事をするだけでも随分と抵抗があったのに、部屋という完全なるやつのテリトリーにほいほいついて行くわけがない。
「……んが、待ってるからですか?」
「なんだ? なんて言った?」
 窓の外を眺めていた目を隣の男のほうに向けると、彼はやや俯いていた。暗い車内だからか、表情まで暗いような気がしたが、前方から走ってきた車のヘッドライトに照らされたと同時に、それも明るいものに変わった。
「なんでもないです。ああ、美味しかったなー。また連れていってくださいね、薫さん」
 にこっと笑う顔は、いつも通りだった。

「お前が普通に大人しくしてたら、考えてやらんでもないがな」
「いつもしてるじゃないですか?」
「本当に減らない口だな」
「だって、本当のことです。俺はいつも普通ですよ。普通にあなたのことを――」
「ああ、もういい!」
 これ以上喋らせると何を言い出すかわからない。薫は急いで遮って、再び窓の外を向く。
 この男とはまともに付き合おうとしたって駄目だ。一週間で学習した。放っておくのがいちばんだと。

 窓の外の景色はとうに街中から住宅街へと変わっていて、橘のマンションももうすぐそこだ。運転手がウインカーを出して、車がゆっくり左折する。
「薫さん、本当に寄って行きません?」
 マンションが見えてきた時、この期に及んでまだそんなことを言ってきた。
「お前なー……」
「なんて、冗談です」
 へらっと笑って、橘は鞄に手をかける。
 エントランスの前で車が停まって、ドアが開く。
「ご馳走様でした。おやすみなさい」
 車を降りた彼は、ドアが閉まる前に首を傾げて車内を覗き込んでそう言った。
 小さく手を振るその姿は、少し寂しげに見えて思わず心配になったが、バタンというドアの音で我に返った。

 あんなの、作戦に決まっている。
 忘れるな。
 デザートを先に食べていたり、食事中ベルトを緩めたり、何か憎めないところがあろうと、少しばかりしおらしい態度をとろうと、あいつはセイレーンだ。女装で男を油断させて、どうこうしようとするようなやつなのだ。

『……んが待ってるからですか?』

 薫には、本当は聞こえていた。
『奥さんが待ってるからですか?』

 あいつ、どうしてあんなこと口にしたんだろう……
 だめだ。
 考える必要はない。
 流されないと、決めたんだ。

 あの男が自分を好きだったからといって、なんの関係があるというのだ? 馬鹿らしい。何も変わるわけがないのだ。



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