Scene 14


 その人がやって来たのは、突然だった。

 ノックもそこそこにドアが開いたかと思えば、写真でしか見たことのなかった現社長が、ずかずかと代理室に入ってきた。
「君が橘君か? 一ノ瀬進一郎だ。よろしくな」
 いきなりのことで、呆然としていた朋聡に向かって社長は右手を差し出してきた。
 背格好も、顔も、薫にそっくりだ。要するに、驚くほど格好がいい。
 年齢は確か五十半ばだったはずだが、どう見たってもっと若い。三十後半だと言われても納得するだろう。

 進一郎は非常に機嫌が良さそうで、朋聡の右手を握ったまま、綺麗な瞳の色だね、とか、そのスーツは君のためにあるみたいだね、とか口説いているかのようなことを、愉しそうに述べた。
 反して、自分のデスクから離れようとしない薫は、相当にご機嫌斜めのようだった。
 一通り朋聡を誉めた後、進一郎はそんな息子に向かって言う。
「お前は社長が来たというのに、座ったまま挨拶もしないつもりか?」
 その声は厳しく、朋聡でも背筋が伸びそうになった。
 さすがは、この大きな会社の社長である。普通の人からは感じられない威厳がある。
 けれど、社長代理も負けていない。

「ただ名前だけの社長に、売る媚は持ち合わせていません」
「偉くなったものだな、薫。まあ、いい」
 進一郎は余裕綽々で笑い、ソファーに深くかけた。と同時にノックがあり、秘書課一の美人がコーヒーを運んでくる。計ったようなタイミングだ。
 今までいろんな人物を見てきたが、ここまで神に愛されているように見える男は初めてだ。薫と圧倒的に違うのは、そういうオーラとでも呼ぶべきものの種類だろう。

「ありがとう」
 進一郎が微笑めば、彼女はぽっと頬を赤く染めて恥ずかしそうに出ていった。
 これは相当な手練だな。
 社長が半分引退してるのは数多いる愛人たちと遊ぶためだという噂があるが、あながちデマでもないのかもしれない。

 進一郎はコーヒーを一口飲んで息をつきそれから胸元に手を入れたので、朋聡は来客用の灰皿をテーブルに置いた。
「社長、私は外したほうがよろしいですか?」
 気を遣って訊くと、そうだな、と返してきたので朋聡は退室することにした。
 ドアを閉める間際、ちらっと見た薫の顔は苦虫を潰したようにも、泣きそうになっている子どものようにも見えた。



「まだ帰らないんですか?」
 橘の声にはっとして、薫は顔を上げた。いつの間にか、すぐ傍まで来ていたらしい。
 彼は薫のデスクの前に立って、顔を覗き込んでいる。
「何か問題ありました? その書類。ずーっと、睨めっこしてますけど」
 茶化すように咎められ薫は決まり悪く、しばらく手に持ったままだった書類をデスクに戻した。それはもう、既に目を通して了承の判まで押されているものだった。
 父が帰ってからずっと、薫はぼんやりしていた。
 頭が痛い。
 ブラインドの向こうは雨模様らしい。
 見えなくても、音が聞こえなくてもわかるのは、この頭痛のせいだ。
 どうしても、指が蟀谷のところを押さえようとする。頭痛薬は飲んだのに、飲み慣れてしまったそれはあまり効かない。
「大丈夫ですか? 代理」
 さすがの橘もふざける気が起きないらしく、さっきからこうやって何度も心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫だ。それよりお前、帰っていいぞ」
 時計を確認するまでもなく、就業時刻はとうに終わっている。できるだけ残業はしない、というのが会社の方針だ。
「代理はどうなさるんですか?」
「ああ……俺も、もう帰る」
「嘘、つかないでください」
 薫は黙った。
 実際嘘だったし、言い訳をする気力もない。

 頭が痛い。がんがんと殴られているみたいだ。
 もう何も考えたくない。
 それでも、勝手に頭は考える。
 数時間前の父の言葉。数日前の百合子の言葉。医者の言葉。果たさなくてはならない責務のこと。

『一ノ瀬の名を傷つけることだけはするなよ』
 その台詞は二十七年間何度も聞いたものだったが、今日のが一番重たかった。
『全く、向こうから三行半を突きつけられるなんて情けない。いいか、病気のことは隠し通せ。万が一離婚なんてことになった時、次を見つけるのに不利になるからな』
 薫は知っている。
 いくら忌々しげに言い捨てていても、父親が内心笑っていることを。
 いつもそうなのだ。父はいつだって、薫が失敗するのをてぐすね引いて待っている。「お前は駄目だ」という機会をいつも期待しているのだ。駒が勝手に動いてもゲームには勝てないと、父はそう言いたいのだ。
 何が、不利になるだ。人を形の悪いきゅうりか何かみたいに値踏みしやがって――

 頭が痛い――

「代理」
 呼ばれて、しかたなくまた顔を上げる。
 橘は見慣れない顔をしていた。いつもの過剰すぎるような自信は見えず、もちろんふざけた様子もなく、少し弱々しいような顔だった。
「代理。俺、心配してるんですよ」
「心配?」
 呆れたように言い放つと、橘は少し悩んだような素振りを見せたが続ける。
「変ですか?」
 弱気な表情がきっと引き締まって、逆にいつもより強気な眼差しに射られる。
「変では、ないが……」
 続く言葉は自分でもわからない。
 ただこの眼差しが痛い。強固な姿勢に抗えない。

「俺はあなたを心配しています。何か話せることがあったら、俺に話して欲しいです」
「何も、話すことなんかない」
 そう言いながら、心のなかには迷いがあった。
 なぜだかわからない。けれど、話してもいいような気に、いや、正確に言えば聞いて欲しいような気持ちが生まれていた。
 何を、と訊かれたらわからない。秘書に話すべきことなどひとつもない。父のことも、百合子のことも、橘には関係のない話だ。
 だけど何かもやもやとしている。
 なぜかあの眼差しの力強さに、寄りかかってみたいような気になっている。
 弱気になっているのか?
 橘の顔から目を逸らして、薫は考えた。
 雨だからかもしれない。
 蟀谷に居座り続ける頭痛を思う。
 昔から、雨の日は嫌いだ。
 雨の日に限って、嫌な事が起こる。だから嫌な思い出が残っている。雨はそれを想起させる。雨は苦手だ。
 天気予報では、今夜いっぱい降り続くらしい。

「飲みに、行くか?」
 観念したようにそう言うと、橘は実に柔らかな顔で笑った。



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