Scene 15


 聞いて欲しいとどこかで思っていたはずの話は、なかなか喉から先へは出ていかない。
 薫は無口だった。
 かといって橘が率先して話すというわけでもなく、並び座ったバーのカウンター席は店内の音楽が聞こえるばかりだ。

 外はまだ雨が降り続いているらしく、頭痛は相変わらずで、指先はずっと蟀谷を押さえている。左手にはウィスキーの入ったグラス。
 いっそ酔ってしまったら、楽だろうな……
 そう思ってみたものの、薫は即座に否定し、己を叱咤する。
 弱るにも程がある。

 ちらりと盗み見る男の横顔は清ましている。
 そうか。こいつのせいなんだ。
 橘がさっきからずっと、いつもと違うということにようやく気づいた。
 いつもならもっとふざけて、そう、口説いてきたりするはずなのに、今日はやけに大人しい。
 だから調子が狂う。
 そう思ってすぐに、断じて口説いて欲しいわけじゃないぞ、と誰にともなく内心で言い訳する。
 そんなことをぐるぐる考えていると、隣の男がぷっと吹き出した。

「なんだ?」
 慌てて問うと、橘は笑いを堪えるためか、口を右手で押さえたまま首を振る。
「いえ、ちょっと」
「ちょっとってなんだ? はっきり言え」
 眉根を寄せて睨むと、橘は軽く肩を上げて、しかたなく口を開く。
「さっきから薫さんが百面相してるのが、おかしくって」
 言ってから、思い出し笑いをこぼす。
「そんなもの、してない」
「してましたよ」
 くすくすと、肩を揺らす男は断定的に言う。
 確かにいろいろ考えてはいたが、笑われるほど表情を変えていた自覚なんてない。むっとして押し黙ると、また笑われる。

「お前、酔ってるんじゃないか? 箸が転んでも可笑しいみたいに笑いやがって」
「そりゃー、全く素面ってわけじゃないですけど、そんなに酔ってないですー」
 少し語尾を延ばすいつもの喋り方に我知らずほっとして、薫の肩の力が少し抜けた。
 残り少なくなっていたウィスキーを飲み干しておかわりを注文すると、飲みすぎじゃないですか? と隣から非難される。
「そんなに飲んでない」
「嘘つき。ちゃんと自覚あるくせに」
「うるさいな」
 そんなやり取りをしているうちに、新しいウィスキーが目の前に差し出される。濃いゴールドの酒に沈んだ氷の肌が仄かな明かりの元で光る。

「薫さんって、悩みを他人に言わない人なんですね」
 ぼんやりとウィスキーを眺めていた薫に、橘が突然言った。
「急に、なんだ」
 かかっていた音楽がフェイドアウトして、違う曲が静かに流れはじめる。
「初めて出逢った時も、薫さんひとりで酔ってたでしょ? 今日も、ひとりで百面相してお酒ばっかり飲んでる」
 視線を感じた。けれど薫は気づかぬふりで、前を向いたままグラスに唇を当てる。
 人の心の機微に聡いやつだ。
 そんなだから、秘書なんて仕事が勤まるのだろうが、プライベートでは発揮しないでいて欲しい。

「だからなんなんだ?」
 低い声で返すと、橘はちょっと肩を上げて見せた。
「たまには愚痴ったらどうですか? 何もかも飲み込んでたら、いつかおなか壊しちゃいますよ」
 なんてね、と橘は笑い、マティーニに添えられていたオリーブを口に放り込んだ。それから、思いついたように手を叩いて、
「薫さん、ゲームしません?」
 と、全く脈絡のないことを言い出した。
「ゲームだと?」
「そうです。あるお題を一言で表現するゲームです」
「なんだそれは?」
 薫は呆れていたが、話が逸れたことにほっとして訊いた。

「例えば、この店。一言で言うとすれば、そうですねー、大人、かな? でも、なんか安直過ぎですよねー。うーん、静寂っていうほどしんとしてるわけじゃないしー」
 橘はきょろきょろと店内を見回しながら、こうでもないああでもないとぶつぶつ言う。
「しっとり」
「え?」
「熟語じゃないと駄目ってわけじゃないだろ? それなら、しっとりが一番合うと思うが?」
「ああ、そっかー。そうですね。しっとりってすごく的確な感じします」
 再び店内をぐるりと見て橘は、さすが薫さん! と大袈裟に褒めた。

「面白くないことはないから、やってやってもいいぞ、このゲーム」
 薫がそう言うと、橘はえへへと笑う。乗せられたのはわかっているが、たかだかゲームだ。ちょっと付き合ってやるぐらい、安いもんだ。
「じゃあ、橘朋聡を一言で――」
「変態」
「あー、薫さんまだ言い終わってないのにー。というか、変態ってなんですか、変態って」
 子どもみたいに頬を膨らませて反発する姿がおもしろい。薫はくつくつ笑いながら、もう一度、変態だ、と断言する。
「これ以上お前にぴったりな言葉なんてないだろう?」
「ありますよー。美人、とか有能とか、知的とか」
 言いながら、本気でむくれている。
「お前、そういうことは自分で言うことじゃないだろう」
「じゃあ、薫さんが言ってくれますか?」
「嫌だ」
 薫の即答に、橘の頬はますますぷっくりと膨らんだ。

 要するに子どもなんだな、こいつは。
 そう気づくと、なんとなく余裕が出てくる。未知の生物だった橘のことも、徐々にわかってきた、ということだろう。とはいえ、いまだに理解不能部分のほうが断然多いが。
「だったら薫さんは?」
「俺?」
 いろんな言葉を浮かべて考えてみる。けれど薫はすぐに諦めた。自分のことなど、わかりすぎていて一言で表すのは無理だ。
「俺は駄目だ。他にしろ」
「えー。ギブアップですか? じゃあ、お父さんは?」
 ほら、やっぱり。
 やっぱり未知の生物は未知のままで、あなどれない。

 薫は黙った。橘はそんな薫の様子に何も言わず、自然に前を向いて何気ない素振りで新たな酒を注文していたりする。
 やっぱりわからない。
 もしかして全て計算ずくだったのかもしれない。
 これは、最初から薫に父親のことを話させようとした、作戦だったんじゃないだろうか?
 そっと窺った男の横顔はあまりにも普段どおりで、気づいたら、可笑しくもないのに笑っていた。

「な、なんで笑うんです?」
 さすがに計算外だったのか、橘はややうろたえた顔をして訊いてきた。自分でもなぜだかわからない薫は、首を振って素直にわからんと答えてやった。橘は不満げな顔をしたが、丁度バーテンダーがグラスを差し出してきたので、何も言わずに黙ってギムレットを飲んだ。
 そんな様子を横目で見ながら、どうして笑ったのかしつこく考えているとある単語が浮かび、そのままを口にしてみた。
「降参」
「え? なんですか?」
 グラスの淵を指でなぞっていた橘が首を傾げる。薫はまたちょっと笑う。
 降参という二文字は、今の心境にぴったりだと、口に出してみてわかった。こんな気持ちは初めてだ。
 負けることが好きな人間はいない。特に薫は大嫌いだ。それでも自分は今、負けたと自覚しながら不愉快ではない。変な気分だ。

「なんでもない。それよりお前、親父のこと訊きたいんだろう?」
「え? ええ。バレちゃいました?」
 こういうのを愛嬌と呼ぶのか。なんでもおどけてごまかすやつだ。
「薫さんと社長のことが訊きたいです、俺」
 これもまた愛嬌たっぷりで言う。
 こんなふうにあっけらかんとされたら、喋らずにいるほうが馬鹿らしく思えてくる。

「別に話すようなことはない。嫌いだってだけだ」
「どうして嫌いなんですか?」
「お前、今日会っただろう? どう思った?」
「どうって……結構想像通りだなーって思いましたよ。威厳というか、なんかすっごいオーラがあるっていうかー」
「あんなの暑苦しいだけだ」
 ついそんなことを言えば、橘が吹き出す。
「そういうところが嫌いなんですね?」
 くすくす笑いを含みながら言われて、薫は無言で頷いた。そういうところ、橘から見れば威厳と捉えられる、偉そうなところが子どものころから大嫌いだ。嫌いな理由はそれだけじゃないが、挙げだすときりがなく、きっと夜が明ける。

「じゃあ、雨は?」
「雨?」
 眉根を寄せてギムレットの入ったグラスに口をつけている男を見る。
 頭痛を思い出して、自然と蟀谷を押さえた。
「それ。偏頭痛持ちですか? 低気圧が近いと痛くなるっていいますよね」
 橘に右の蟀谷を指差され、当てていた指を離した。手持ち無沙汰になった右手は、しかたなくグラスを握る。手のひらに冷たい感触。

「まあ、そんなもんだ」
 握ったグラスを惰性で口に運ぶ。
「あ、今嘘ついたでしょ? もう、本当に秘密主義なんですね」
 橘はからから笑う。
 ここは数年来通っているホームグラウンドのような店で、耳に聞こえるのは家でもよく聴く曲で、舌に感じるのは馴染んだウィスキーの味なのに、どうにも心許ない。
 また強い頭痛を感じ、ふと気づく。
 こんな風に、自分の心を覗こうとするやつなど今までいただろうか、と。心なんてものに興味を持って接してくる人間は多くない。ほとんどの人間が、薫に纏わる地位や名誉や金ばかり見ている。
 心許なさの原因は、きっとそれだ。

「お前はどうして俺に構う?」
 気づけば、口が勝手に動いていた。
「好きだからですよ」
 半ば予想していた答えがあっさりと返ってくる。ふっと笑いがこみ上げた。
「軽い言葉だな」
「なんです?」
「軽い言葉だって言ったんだ」
 また勝手に唇が笑う。
 落ち着かなくて酒を煽る。流し込んだアルコールが胸を焼いたせいだろうか? 胸の奥辺りがきゅっと収縮したような気がした。
 少し酔ってきたかもしれない。冷静なはずの心が少し波立っている。

「言葉が軽いってどういう意味ですか? 愛してるって言ったほうがいいですか?」
 少しの間黙っていた男が言った。また軽い言葉でアイシテルと言った。
 薄っぺらでなんの意味も持たない。秋に落葉した枯葉でも、もっと重みがあるように思えた。
 馬鹿馬鹿しい。

「薫さん、どうしました?」
 次の瞬間には薫の身体はスツールを離れ、立ち上がっていた。橘が怪訝な声で訊いてきた頃には、もうすっかり背中を見せて、足は出入り口に向かうところだった。
「帰るんだ」
 少しだけ振り返り、当然のように言った。橘は驚いて、急いで後ろを追ってくる。
「お前はまだ飲んでていいぞ。勘定はどうせツケだからな」

 なぜだかわからない。苛々する。
 橘の顔を見ているのが嫌になった。胸の奥がまた疼いた。飲みすぎたか? それとも病気にでもなったか? まあいい。病気なら病院に行けばいい。とりあえず今は、早くこの場を去りたい。
 なのに店のドアを押し、数歩歩いたところで阻まれる。腕を掴まれ引っ張られる。
 振りほどこうとして叶わず、薫は振り向いた。
 地下にある店の出口はそんなに明るくはないが、相手の表情がよめないほどじゃない。

「どうしたんですか、薫さん。俺、何か悪いこと言いましたか?」
 こちらの不機嫌は露呈していて今更隠しようもない。けれど、理由は薫も知らないから質問には答えようがなかった。黙っていると、橘が困った顔をする。
「なんでもない。そろそろ酔いが回ってきたから帰ろうと思っただけだ」
「でも薫さん……」
「ほら、帰るぞ」
 掴まれた腕を緩く引き、放せと示してみるが、橘は応じない。それどころかさらに強い力で腕を握った。

「嫌です。帰りません。薫さんも、帰しません」
「お前――」
 何を言っている? そう訊こうとした言葉は、不可解な言葉によって遮られる。
「今ここで言ってもいいんですか?」
 低い声。
 橘の瞳は怖いくらいに真っ直ぐで、その上真剣だった。
 見つめられ続けていると、鼓動が早くなって、呼吸がうまくできなくるなような感じがした。

「何を、だ?」
 ぐいっと腕を引かれ、抵抗する間もなく身体を引き寄せられたかと思うと、耳元に声が吹き込まれる。
「軽くない言葉を、です」



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