Scene 16


 どうしてこんなことになったのか――

 硬く冷たい壁に押しつけられた身体が軋み、橘の右手に力尽くで戒められた、両方の手首に絶えず痛みを感じる。
 どうしてこんなことになったのか――
 考えようとする薫の思考は熱によって奪われる。思考だけじゃなく、言葉も、気持ちも何もかもが橘の熱によって奪われていく。
 無遠慮に押しつけられた唇。そこに潜む舌が薫の唇のあわいを破り、生暖かな肉が歯列をなぞっていく。逃げようとする舌はあっけなく絡みとられて、赤裸々な音をたてながら侵されていく。しゃぶるような凶暴なくちづけに全身が熱く、息もできない。
 帰さないと言った言葉は嘘じゃなかった。あのまま腕を無理やり引かれ、タクシーに押し込まれた。橘はずっと無言でその沈黙が怖かった。けれど帰れなかった理由はそれだけじゃない。
 強引に促されたとは言え、最も警戒していたはずの場所に、橘の部屋に、己の両足を運んできたのは薫自身だ。

 どうしてだかわからない。わからないままに、玄関先で靴を脱ぐ間もなく壁にはりつけられ、口づけられている。
 耳の奥で響く唾液の絡み合う音が生々しくて、口腔を嬲られる感触は淫猥で、思考はついていっていないというのに、身体は確かな反応を示している。
 疼く中心に橘が足を当ててくる。そろそろと擦るように動かされ、腰が震えそうになる。
 足に力が入らない。
 駄目だ。
 なんとか腰を引こうとするが後ろは壁。逃げ場はない。
 それを言い訳にして、熱くなった下半身を煽って欲しいと、頭のどこかで思っている自分を知っている。けれども、残った理性で欲望を追い払おうと必死になる。

「俺に流されればいいじゃないですか、薫さん」
 ようやく唇を離した男が、悪魔みたいに囁いた。
 悪魔の瞳は欲情していて、濡れた唇を見せつけるように舌で舐めた。
 その顔はどこからどうみても男なのに、昂ぶった性器が萎える気配はない。愚かなことに、その濡れた唇をもう一度味わいたいとさえ思う。

「……くっ――」
 小さく呻くのが精一杯だった。
 俺はおかしくなってしまったのか?
 とうとうセイレーンに惑わされ、喰われてしまうのだろうか……?
 そんな心を見透かしたように、橘は耳元に唇を寄せて、あの熱くて甘い声を聞かせてくる。

「楽になりたいでしょう? 俺ならそれをしてあげられますよ。ほら、ここ。いっぱい触って、ぐちょぐちょに濡らして、扱いてあげますよ」
 スラックス越しに性器を摩られて、堪えていた吐息が漏れた。
 手のひらをぎゅっと握って我慢しようとしても、刺激されて感じた性器はさっきよりも硬くなって快感を橘に伝えている。
「や、めろ……も、やめろ」
 なんとかそう言うが、薫は動きそうになる腰を止めるのが必死だった。
 駄目だ。こんなことは駄目だ。
 どうしてこんなことになったのか――
 もう何度目とも知れず思う。

 橘は煽る動きをやめない。
 薫のネクタイを強引に緩め、襟元のボタンを外しながら、首筋を舐め上げてゆるく噛みついた。
「…ふ…ぅ……」
「ちょっと痛いぐらいが気持ちいいんですか?」
 顔を上げた橘は嬉しそうにそう言って、瞳にさらなる熱を宿す。まるで肉食獣だ。恐怖は感じているのに、それだけじゃない自分が嫌だ。否定したい。なのに、快感に打ち震える身体のせいで否定できない。
 キスをしたい。唇を舐め、舌を吸って欲しい。首筋や耳に歯を立てて、昂ぶらせて欲しい。熱くなった性器を握って擦りあげて欲しい。
 どんどん思考が淫乱に陥っていく。
 朦朧として、理性が失われていく。

 ベルトをはずす音が聞こえた。
 鎖骨に吸い付かれて、また吐息がもれる。
 シャツを引っ張り出され、ジッパーを下ろされる。
「どうします? やめますか?」
 楽しそうに、男は訊く。どこまでも底意地が悪い。
 薫は荒くなった呼吸を気取られないようにしながら、やめる、と小さな声で言う。
「本当に? こんなになってるのに? 薫さんの身体感じやすくてすごく可愛いですね。もっと可愛がってあげたくなります。こうやって、絡ませて」
 言いながら、橘の左手が下着のなかに入ってきて、頭をもたげた熱に指を這わせる。
「もう少し濡れてますよ、薫さん」
 鈴口を爪の先でくじられ、情けない声がもれる。
「それでもやめる?」
「や、める……」
 辛うじて言うと、ぱっと橘が掴んでいた薫の手首を離した。

「じゃあ、どうぞ」
 橘はさらりと言って、一歩後ろへ退いた。まさか解放されると思っていなかった薫は唖然として、硬直したまま男の顔を見つめた。
「やめるんでしょ?」
 そう言った橘は、左手の人差し指を赤い舌を見せながら舐めた。それはさっき薫の鈴口を弄った指だ。先走りを舐めている。そうわかった瞬間、身体が恥ずかしげもなく震えた。
 それを待っていたかのように、橘は耳の横の壁に両手をついて、瞳を覗き込みながら、
「どうして逃げないんですか?」
 と、意地悪な笑みを浮かべる。

「今だけの話じゃないですよ、薫さん。本当はずっと、逃げようと思えば逃げられたでしょ? 俺は片手であなたの両手を封じてただけですよ」
 身体中の熱が上がったのがわかった。顔を逸らそうとしたが、顎を捕らえられ無理やりに視線を合わせられる。そのまま顔を寄せられ、薫は唇を噛んだが、くじけない舌がその上をしつこく舐めて、結局また口づけられる羽目になる。
 また、逃げ出そうと思えば逃げ出せる状況で、動けなかった。
 薫も自分でわかっていた。わかっていたけど、それを認めたくなかったから、気づかないふりをしていただけだ。
「そんなに悪いことじゃないですよ。性別なんて忘れればいいじゃないですか。性欲があって、それを満たしたいだけなんだから、寧ろ自然な行為ですよ」
 橘は再び、耳元で誘惑する。
「大人なんだから、割り切っちゃえばいいんですよ」
 どくん、と心臓が鳴って、バーを去ろうとしてた時に感じたあの胸の収縮が、また襲った。
 なぜだか苛々する。
 胸を押し返そうと思ったが、耳を噛まれ、下着越しに性器を手のひらで包まれて、あけすけに身体が反応して、投げやりな気分になった。

 橘の言うとおりだ。
 こんなここと、大したことじゃない――
 大人なんだから、これぐらいの、謂わば性処理ぐらいなんだっていうんだ。なんの意味もない。そうだ。あの橘の言った軽い言葉と一緒だ。
 落葉する枯れた葉と、手のひらに振ってすぐに融ける雪と同じ。
 重い理由など何もない。
 ――軽い行為だ。

 薫は強張りを解いて、己の情欲を満たしてくれる相手に身を預けることにした。
「橘、お前のもしてやる」
 意味もない行為だと割り切れば、こう言うことも、実際にスラックスを開いて男のものを探ることも、大した抵抗を伴わない。

「薫さん、いいんですか?」
 少し意外そうに訊かれて、薫は素っ気なく頷き行為を続ける。下着のなかから取り出したそれは硬くなっていて、握って擦れば硬度も質量も熱も増す。率直でわかりやすい。自分のもそうだ。
 刺激されたから感じてるだけ。興奮してるから鼓動が早くなり、息が継げなくなっているだけ。
 逃げられなかったのは、快感が欲しかったから。感じてイキたかったから。

 単純な話だったんだ。
 さっきより快感と興奮が薄くなったように感じるのは、いったん冷静になってしまったからだ。
 何もかも、割り切れないことなどない。
 手のなかで濡れていく性器を感じながら、扱かれて熱くなる己を感じながら、薫はそうやって無理やり答えを出して、それ以上は何も考えるのをやめた。



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