Scene 17 俺、何を言おうとしてたんだろう…… 温かくて柔らかい照明が点るホテルのロビーで、朋聡はひとりぼんやりとしていた。 待ち合わせている叡凌が珍しく遅刻している。こういう時に限って待ち合わせ場所がロビーだなんて、手持ち無沙汰でしょうがない。 適度に冷房が効いたロビーは過ごしやすいからか、夜遅い時間にしては人が多い。しかし格式あるホテルだけに、騒がしいということはない。 そんな状況だからこそ、ついつい思い耽る。数日前の、薫とのことを。 翌日顔を合わせた薫は、多少の動揺は見られたものの思ってたよりずっと平然としていた。それは朋聡にとってはつまらないことだった。さらにもっとつまらないことに、その平静さはずっと続いた。つまり、以前のように口説いてみても、薫は怒ったり恥ずかしがったりしなくなったのだ。 何がいけなかったんだろう? だいたい薫の様子がおかしくなったのは、あのバーで帰ると言い出した頃からだ。 あの時は突然のことに戸惑い、薫を引き止めるので精一杯だった。 軽くない言葉。 それが魔法のように効いて、朋聡とすれば一歩も十歩も前進したつもりでいたが、もしかしたらそれは間違いだったかもしれない。 軽くない言葉と口にした時、自分は何を言おうとしていたのか、今となってはよくわからない。でも単にでまかせで言ったわけじゃない。 自分のことって、やっぱりよくわかんないなー。 変態。 薫のイメージではそれらしい。 まあ、それは間違いじゃないが、当然それだけじゃない。変態だから、いやらしいことがしたいから、それだけで薫に触れたんじゃない。 じゃあ、なんだと問われると困る。 自分ひとりの自問自答なので、誰も問うてこないのが幸いだ。 ああ、もうわかんない。 とうとう面倒になって放り投げる。 とにかく、今困ってるのは薫が素っ気なさすぎるところだ。あんな可愛気のない薫は魅力半減だ。それなら追うのをやめればいいのだが、なぜかそうもいかない。 イライラして、組んで下になったほうの足でとんとんと地面を叩いていると、エントランスのガラスドアの向こうに、見慣れた男の姿が見えた。早く誰かと喋って気を紛らわしたかった朋聡は急いで立ち上がったが、叡凌の横に小さな人影を見つけ足を踏み出すのを躊躇した。 よく見れば、小さいと言っても叡凌が長身だからそう見えただけで、ちゃんとした成人のようだった。 遠目なのと和服なのとで性別がよくわからない。叡凌はその人物に向かって丁寧なお辞儀をして、その人物が停まっていた車に乗り込み、走り出したその車が見えなくなるまで見送ってから、やっとホテル内に入ってきた。 それに伴って止まっていた朋聡の足も動く。 「遅いよ、叡凌」 まだ近づく前から大声で非難する。叡凌はこちらへくる朋聡の姿を見つけると足を止めて、朋聡が目の前までくると、大して悪びれずにすまんと謝ってきた。 言い訳も弁解もしない。そこは叡凌らしくて、朋聡は気に入っている彼の性格だ。 「まあ、いいけど。ねー、さっきのって誰?」 「なぜ訊く?」 「え、何? 隠したいような相手なの?」 「仕事相手だ」 それだけ言って、すっと踵を返してドアに向かう。 叡凌の場合、隠しているのか単に無口ゆえなのかがわからない。眼鏡の奥の瞳の色はいつも冷たいくらいに平静だし、表情の変化も乏しい。動揺したところなんか一度も見たことがない。 しかし、叡凌が誰かといるところを見るのは稀だ。それもあんな恭しい態度で接しているなんて、基本的に他人に興味の薄い朋聡でも気になる。 どう切り込んでいこうかと考えながら叡凌の後を追っていた朋聡の足が止まる。それに気づかずすたすた歩いていこうとする友人の腕を慌てて掴んで引き寄せ、その陰に隠れるように身を縮めた。 ドアの前に止まった車に見覚えがあった。 シルバーのベンツからは、数メートル先からでも綺麗だとわかる女性に続いて、思ったとおり一ノ瀬薫が降りてきた。 会社には着てきたことのないチャコールグレーのシックなスーツを纏った彼は、ここ三週間ばかり傍にいても見せたことのなかった優美なしぐさで、彼女をエスコートしてこちらへ向かってくる。 朋聡は益々身体を小さくして、こっそり薫がエレベーターに乗るまで様子を窺った。 薫さんって、あんなに男らしかったっけ? 毎日毎日、乗る前に不機嫌な顔をするエレベーターを前にしても、余裕の笑顔は崩れない。 肩を抱いたり、腕を組んだりしているわけじゃなくても、きっちりとリードしてることが見て取れる。 あんなに優しい人だったっけ? 社内でも、女性社員に声をかける時は優しいというより、気障っぷりを発揮してるが、あんな風なのは見たことがない。 社内で見せるのは、上司としての優しさで、今あの人に見せてるのは、男としての優しさなのかもしれない。 つまんないな…… 「朋聡。どうしたんだ?」 しばらく大人しく盾になっていた叡凌が、さすがに不審に思って訊いてくる。朋聡は冴えない顔を隠さずに、でもなんでもないと首を振った。 「愛人を堂々とホテルに連れ込むなんて、どんな神経してるんだかだよね?」 「……は?」 「だって、あの人奥さんじゃないもん。奥さんの顔知ってるもん、俺」 「……はぁ」 「なんか幻滅―。普通浮気ってこそこそするもんだと思わない?」 「…………」 会話が成立しないまま、朋聡は喋り続けた。 「もう行こう、叡凌。今日はおいしいものいっぱい食べよう。だから和食はキャンセルで焼肉にしよ」 昨日突然和食が食べたいと騒ぎ出したのは朋聡だが、そんなこと構わない。 「焼肉、焼肉。もう牛一頭食い尽くしてやる!」 格式高いホテルのロビーには不似合いな台詞を大声で喚いて、朋聡は友人の袖を無理やり引っ張ってドアを出て行った。 |