Scene 18


「薫さんがこんなヘマするなんて、珍しいですわね」
 女は薫のシャツの胸元を、指でなぞりながら笑う。そこにはほんの少しだが、見間違えようもない、赤い口紅がついている。
「それとも昼間お会いになった方が、よほど大胆なのかしら?」
「……すいません」
 素直に謝ると彼女は妖艶に笑って、首に腕を絡ませてキスを強請る。

 彼女の名前は美沙子。何人かいる愛人のうちの一人だ。
 そしてシャツの口紅は、その何人かいるうちの別の愛人が、昼間つけたものだ。美佐子が言うとおり、そういうことに気づかず他の女に会うなんて、薫にとってはすごく珍しいことだった。
 ぼんやりしているというよりは、そこまで気を回すのが煩わしいから、こんな結果になった。
 普通なら、どんなに時間がなくても、他の女に会う時は必ず服を着替えるのが薫のやり方だ。

 抱き合うだけには広すぎる部屋でキスをしながら、心がどんどん冷めていくのを感じる。昼間もそうだった。どんな女を抱いても、何か虚しい。なのに、ひとり広い家にいると考えたくないことばかり考えるから、ひとりではいられない。
 結局縋るべきは、愛人しかいない。

 女の首筋に唇を這わせれば、細いチェーンに触れる。さっき薫がかけてやったものだ。ダイヤのいくつかついたそれは、彼女に会う直前に薫が買ったものだが、値段も知らない。昼間の女にプレゼントしたピアスも、目に付いたものを適当に選んだだけだから、なんの石がついていたかも忘れた。
 なんて男だろう……
 不誠実なのは、彼女たちも知っていることだ。薫が既婚者で、愛人も一人や二人ではないことを知らないような女とは付き合わない。
 けれど今までは、プレゼントや食事には気を遣っていた。好みのものを探して、喜ばせるのが好きだったのに、今はただ傍にいてくれる代価を払っているに過ぎない。

 虚しい。

 橘のせいだ。
 もしも時を逆戻しできるなら、あの夜からやり直したい。そしたらもう酔って、あいつとホテルに行ったりしない。
 後悔はいくらもした。だけど、戻らない。

 出逢わなければ、よかった――

 胸が苦しい。
 女の吐息が聞こえて、我に返る。
 柔らかな身体に手のひらを這わせ、手触りのいいシャツのボタンを外す。淡い香りがする。それで、橘のあの甘い香りを思い出した。
 胸がざわついて、薫は焦って美沙子の頤を捉えてくちづけた。

 最低だ。
 最低だとわかりながら、薫は女の柔らかい身体を強く抱きしめるしかできなかった。



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