Scene 19


 交わす会話が減った。
 朝の挨拶、別れる時の挨拶。それから仕事での会話。それ以外に言葉を交わす回数が、最近格段に少なくなった。
 七月も半ば。まだ梅雨の明けない東京。自然雨の日も多いが、薫の憂鬱はそれだけが原因ということでもなかった。

「すいません代理、お待たせしました」
 窓を開け、綺麗にメイクアップした橘が言う。
 少し伸びてきた髪をアップにして、メイクは夏らしい爽やかな薄化粧で、服は白いワンピースに黒いジャケット。ひと目でジバンシーとわかるデザインがよく似合っている。
 最近、女装が多いような気がする。
 薫は後部座席に乗り込む。ドアが閉まったのを確認して、橘が車を出した。
 行く先は帰るべき薫の家。タクシーじゃないからわざわざ行き先を言う必要もないし、何度も往復している道のりだから、説明する必要もないから会話はない。

 そもそも、会話が少なくなった最初の発端は薫にある。それは自覚している。
 あの日、橘の部屋の玄関で不埒なことをした翌日から、どうしても普通ではいられなくなった。例の苛々がずっと持続している。
 けれど、橘は橘で近頃おかしい。まず軽口を言わなくなったし、べたべたしようともしなくなった。
 それは喜ばしいことのはずなのだが、なんとも落ち着かない。苛々がますます募って、溝が深まっていく。
 仕事には影響がないのだから、問題ないといえばそれまでなのだが、なぜか考えることをやめられない。
 すっかり、変になってしまった。

 空調の効いた涼しい車内は静かだ。
 車は滑らかに進む。橘は運転が非常にうまい。薫がこれに気づいたのは、初めて彼の運転する車に乗った時だ。元来、薫は他人が運転するものに乗るのが嫌いだ。だから運転手なんてものを雇ってないし、以前の秘書にもハンドルを渡さなかったのだが、橘にだけは自分の車のハンドルを任せる気になれる。
 何気なくフロントミラーに目をやれば、橘の瞳が映っている。あの夜、あの瞳に間近から見つめられた。思い出すと、胸がどくんと音をたてる。
 それを合図にしたように、あの夜のことが次々とよみがえってくる。同時に、胸が苦しくなる。

 もう今更、これが病気かもしれないなんて馬鹿なことは考えない。
 橘を意識してるんだと、それはもう認めざるを得ない。
 女を抱いていも、何をしていても浮かんでくる、忌々しいこの男の存在が、胸をこんなにも苦しめている。
 どうすればこれが治るのかわからない。薫にできることと言えば、なんにも感じていないようなフリをすることぐらいだ。

 赤信号に捕まり、停車する。薫はフロントミラーから目を逸らして、通りを眺めた。
 天気はよくない。洒落たショップの並ぶレンガ敷きの通りには外灯が点されている。そこを行き交う人のなかに、ふと目に留まる人物を発見し、薫は、あっと声を上げた。
「どうかしました?」
 運転席から訊かれ、なんでもないと答えようとした時、窓外の人物と目が合う。驚きの顔がちょっとだけとまどった笑顔になる。
 通りと車の距離はそんなにない。薫は窓を開けた。
「直帆、そこで待ってろ」




 自分の行動を後悔したのは、直帆がまごつきながら口を開いた時だった。
「あのね、薫。実はその、例の彼も一緒なんだ」
 すぐに車に戻ろうとした。けれど、そいつが店から出てきて直帆を呼んだから、そうもいかなくなった。

「早瀬ヒロ君。建築家で、事務所も構えてる社長なんだよ」
 直帆は遠慮がちに、薫の顔色を窺いながらその男を紹介した。
 会うのは初めてだ。名前も、今初めて知った。当然だ。直帆に直接会うのさえ、この男のことで相談を受けてからは一度もなかったのだから。

「早瀬ヒロです。挨拶が遅くなってすいません。一ノ瀬さんのことは、直帆からたくさん聞いてます」
 早瀬は緊張しながら自己紹介した。
 一応スーツを着ているが、ちゃらちゃらしてる雰囲気が隠せない。どう考えても、自分や直帆とは異質の人間だ。でも何かそれだけではない違和感を感じる。しばらく考えてみたが、結局その違和感の原因はわからなかった。

 それにしても、これがあの早瀬ヒロだとは驚きだ。
 建築業界においては人並みの知識しか持たない薫でも知っている名前。つまりそれだけ有名だということで、まさかこれがそんな人物だとは、失礼ながら到底思えない。
 けれどその直後、もっと驚かされる事態が起こった。

「もしかして、朋?」
 薫に挨拶を済ませた早瀬が、薫の背後にいた男を見つけて言った。
「ああ、やっぱりヒロだったんだ。スーツなんか着てるから別人かと思った」
 橘はそう答えた。
「やっぱり! めちゃくちゃ久しぶりじゃん。元気だったの? 確かアメリカに行ってたんじゃなかったっけ?」
 いつ帰ってきたんだよ、水臭いなー。そう言って、早瀬は再会を心から喜んでいる風だったが、橘はなんだかそわそわしている。
 そんなやりとりを、薫は呆然と見つめた。
 早瀬と、橘が……?

「昔からの知り合いなの?」
 訊いたのは直帆だった。
「うん! 俺が高校卒業してクラブでバイト――」
「ヒロ!」
 子どもみたいにはしゃいで言う早瀬の言葉を、橘が止める。女装をしていることを忘れたのか、低い声を出したので直帆が目を丸くした。
 その気配を感じ取ったらしく、橘は気を取り直してやや高い声で再び早瀬を呼んだ。
「久しぶりだし、一緒にご飯でもどう?」
「え? うん、いいけど……」
 首を傾げながら頷いて、早瀬は直帆の顔を見上げる。その様が、まるで主人の顔を覗き込む犬みたいに見えて、薫はちょっと笑いそうになった。
 気が抜けると言うか、憎めない感じがする。
 思ったほど、悪いやつではないのかもしれないな…
「行ってきたら?」
 直帆が優しく微笑めば、早瀬は嬉しそうに頷く。やはり犬のようだ。

 橘がいそいそと早瀬を連れて去っていき、残された直帆はその背中を見送りながらぽつりと呟いた。
「綺麗な人だね……」
 うかない顔の理由がわからず、どうしたのかと問えば、直帆はなんでもないと首を振る。
「もしかして、心配なのか?」
 薫がそう訊くと、直帆は明らかに動揺する。図星らしい。

 薫は、それで安心させられるかどうか迷ったが、
「あいつは男だぞ」
 と教えてやった。すると、ある意味至当な反応が返ってくる。
「ええ?! 嘘でしょう?」
 やはり、あの男の女装はそうそう見破られるものではないらしい。薫は不思議でしかたがないが、それが一般的らしいのだからしょうがない。
「嘘じゃない」
「……へえー……」

 直帆は驚きと、安堵の混じったため息をこぼした。  複雑な気持ちだ。
 直帆が感じていたのは間違いなく嫉妬というやつで、それはやはり彼が男である早瀬を好きでいることの証明だ。
 夢でも嘘でもなく、親友は男と恋愛関係にある……

「……薫」
 直帆が不安そうな声で名前を呼んだ。
 おそらく、薫の心境が伝わったのだろう。
 電話で付き合うことにしたという連絡はあったが、それきりだった。
 薫が賛成していないことは、充分すぎるほど伝わっているはずだ。

「久しぶりに、直帆の作った飯が食いたいな」
 そう言うと、直帆の顔がぱーっと花が咲いたように明るくなる。
「何が食べたい? 薫。パスタとかどう? ペペロンチーノ。薫の好きな生ハムも買って帰ってサラダにしようか? それともサーモンにする? ワインはどうしよっか? あ、でも車だっけ?」
 一生懸命に話す姿があまりにも微笑ましくて、薫は親友の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「あ、ごめん。なんかはしゃぎすぎたかな?」
「いや、そんなことない。俺も直帆の料理が食えると思って今からわくわくしてる」
「本当?」
 また一層に華やいだ親友の笑顔を見て、薫の心は何週間かぶりに寛いだ。



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