Scene 20


「本当に飲んで大丈夫?」
「ああ、代行を頼むから平気だ」
「そう? じゃあとっておきの開けちゃおうか?」
 直帆はずっと嬉しそうにしている。
 家に帰って、キッチンに立ってからもずっと大声で話しかけてきた。

 大人気ないことをした。
 親友が同性と付き合い始めたことに動揺し、今までどんなに忙しくても週に一度は会いに来ていたのに、もう何週間も避け続けてきた。そのことに、直帆がどれだけ心を痛めていたかと思うと、申し訳なさでいっぱいになる。
 男と付き合おうが、直帆は直帆だ。大事な親友であることに違いない。そんなことわかっていたはずなのに、勝手に拗ねて随分と酷いことをした。
「ごめんな、直帆」
 ワインの栓を抜いている親友に声をかける。
「何?」
 ポンという音をたてて、栓が開く。
「ずっと、避けてて」
「ううん……」

 白ワインがグラスに静かに注がれていく。
 テーブルの上には、彩りの美しい生ハムのサラダとペペロンチーノとチーズが並べられている。なんだか懐かしい感じがして、胸がいっぱいになる。
「薫は、ヒロ……早瀬君のこと、やっぱり認められない?」
 おずおずと訊かれ、薫は正直に、すぐには無理だと答えた。
「悪いやつでは、なさそうだがな」
「うん。悪い子じゃないよ。昔はちょっと、その、いろいろ遊んでたりしたみたいだけど……」
「……ああ」

 それ以外に返事としてなんと言えばいいかわからない。そうだろうな、と納得する部分もあるが、具体的にどんなことをしていたのかもわからないから、なんとも言えない。
 ただ、そうなってくると薫にとっては気になることが出てくる。
 橘も彼の友人なら、同じく遊んでたということになるんじゃないか?
『クラブでバイト――』
 そこで橘は遮った。聞かれたくなかったのだろう。
 隠したい過去があるのだ――

 あいつが真っ当に生きてきた人間じゃないだろうことぐらい、とうにわかっていた。だから過去だっておそらく突飛で、一流企業に勤めてる手前、隠したいこともあるのだろう。まして薫は会社のトップで、彼の直属の上司なのだから。
 きっと今頃は早瀬に口止めをしている。薫にはもう知る術もない。
 そう思うと無性に哀しくて、胸がつっと痛んだ。

「薫? ごめんね。そんなに心配?」
 気がつけば、ひとり黙り込んでいた。ぎゅっと寄せられていた眉間が痛い。
「薫……俺……」
 俯いて、長い睫毛を伏せた直帆は泣きそうな声を出した。薫は慌てて彼の名前を呼んだ。
「直帆。俺はお前を信じるよ。お前だってもう子どもじゃないしな。お前の好きにすればいい」
 できるだけ安心させるよう優しく言うと、直帆が顔を上げた。その瞳は少し潤んでいる。

 しっかりしなければ。
 自分ばかり直帆に求めていてはいけない。ずっと直帆の傍にいた一ノ瀬薫のペースを早く戻さなければ。今の自分は情けなくて、とても頼りたい相手ではない。
 しっかり、しなければ……

「薫? どこか調子悪い? もしかして本当は忙しかった?」
 心配そうに問われて、薫は首を横に振る。
 どうしても浮かんでくる男の顔を振り払って、微笑んでみせる。
「食べよう、直帆。冷めてしまったらもったいない」
 明るく言ってフォークを手に取る自分は、道化のようでこれはこれで格好悪いな、と薫は思った。

 
※※※※※


「俺、なんかまずかった?」
 それまで他愛のない話をしていたヒロが、ビールジョッキが半分空いたところで言った。
「まずいっていうか……なんだろ? まあ、まずいかな」
 朋聡の煮え切らない返事に、ヒロは怪訝な顔で首を捻る。

 シックな雰囲気のダイニングバーは、数年前のヒロなら確実に浮いていただろうが、今はスーツだし髪の色も落ち着いたし、似合わないことはない。
「大人になったね、ヒロ」
 冗談交じりでそう言えば、そりゃーねー、と軽い返事が返ってくる。それからへらっと笑う。
「朋は色っぽくなったね。項とか超セクシー」
 にやにやと言う。性格は相変わらずのようだ。
 ヒロと出逢ったのは、七年ほど前になる。彼がバイトしていたクラブの、朋聡は常連だった。
 今でもそうだが、ヒロはやけに目立つ存在で、顔もいいし、性格は明るいし、人好きがするので、誰でも自然と仲良くなってしまう。
 朋聡の場合もそうだった。いつの間にか仲良くなって、いつからか一緒になって、あまり健全ではない遊びに嵌まっていった。

「あの人さー、恋人なんでしょ?」
 ふと思い出して訊いてみる。
 驚くぐらい綺麗な顔をした人だった。ヒロに会ったことで動転して挨拶もしなかったけど、穏やかそうな、いかにも平和な人間という感じがした。
「うん。直帆っていうの。写真家の柏木直帆、知らない?」
 ヒロは生春巻きを頬張りながら答えた。お行儀が悪いのも、相変わらずのようだ。
「聞いたことあるような気もするけど……っていうかさ、本気なの?」
「何が?」
 今度はから揚げを租借しながらもごもご答える。
「だって、どう見たって真面目そうな感じじゃない?」
「本気で付き合ってるか、ってこと? 本気だよ。結婚したいくらいだよ」
 朋聡は思わず飲んでいたカクテルを噴出しそうになった。
 数年前の早瀬ヒロを知っている人間なら、朋聡でなくとも同じリアクションを取るに違いない。

 人のことは言えないが、ヒロは相当遊んでいた。毎晩連れている女が違うし、朝、昼、晩で替わる日もあった。
「って、冗談でしょ?」
「なんで? 本気だってば」
 堂々と言う。
「人って変わるんだよ、朋。俺だって誰かに本気になるとは思ってもみなかったけど、直帆のことは真剣に好きなんだよ。すっげー大事なの」
 ヒロの顔は心底幸せそうだ。
「ヒロ、それなんか気持ち悪い」
 こっちまで恥ずかしくなって茶化すと、ヒロは一瞬ふくれたが、すぐにけろりと忘れたように、シーザーサラダに手を伸ばす。

「朋もさ、いつかは本気になったりすると思うよ、俺は」
「何、それー。結婚した女が急に先輩面するみたいにー。なんかむかつくー」
 女子高生みたいな口調に、ヒロがけらけら笑う。
「まあ、とにかく。一ノ瀬さんには余計なこと言わないから」
「え……?」
 きょとんとしているうちに、ヒロは元気に店員を呼び止めてビールのおかわりと、また何か料理を注文する。

「俺、なんか言ったっけ?」
 口止めしたほうがいいかと、考えていたことは事実だけど――
「言ってほしくないんでしょ? さっき、俺が喋ろうとしたの止めたじゃん」
「ああ……」
 見かけほど、と言ったら失礼だが、意外と馬鹿じゃないのがヒロの特性のひとつだったことを思い出した。
「俺、なんで口止めしようと思ったのかな?」
「ん?」
 ヒロは店員がおかわりを持ってくるのを見て、ぐいっと残ったビールを煽る。いつの間にか、テーブルの上の料理も残り少なくなっている。朋聡はほとんど食べた覚えがないのに。
 店員がジョッキを置いていくのを待って、もう一度口にした。
「なんで、ヒロに黙っててほしいのかなって……」

 確かに周囲に言って回るような誇らしい過去ではない。だが、それも自分の一部だ。さすがに家族には全ては話せないが、友人たちやベッドを共にした相手には包み隠さず、なんでも話してきた。その度何度も引かれたり、軽蔑されたりしたが、そんなことをいちいち気に病むほど柔じゃない。
 来るものは時々拒むが、去るものは追わないのが朋聡だ。
 実際見ず知らずの柏木直帆に何を知られるのも怖くない。聞かれたくないと思ったのは、間違いなく薫にだった。
「それはさ――」
「やっぱ、上司だからかなー?」
 ヒロが言いかけたが、朋聡の言葉が被さった。

「ああ、あの人上司なんだ?」
「え? うん。なんだと思ってたの?」
「うーん……そう言われたらわかんないな」
 ヒロはあっけらかんと言って笑う。
「何それ? じゃー、さっきなんて言おうとしたの?」
「ああ、あれはさ」
 そこで言葉をきって、エビチリを口に放り込む。
 それを飲み込んでから彼が言った言葉は、朋聡にとってなぜかとても新鮮なものだった。

「好きだからなんじゃない?」



前へ noveltop 次へ