Scene 3


 それから二日、薫は眠れない夜を過ごし、月曜日の朝を迎えた。
 いまだに頭痛が去らないのは、寝不足だけが原因ではない。まだ金曜のことが頭を離れない。思い出すだに悔やまれる。いい年をして、記憶を無くすほど飲んだのは、失態としか言い様がない。
 結局は、それは思い違いだ、悪夢だと己に言い聞かせることしかできない。それ以外の結論なんて出せるはずがないのだ。
 悶々と同じ自問自答を繰り返し、薫はすっかり憔悴していた。

 朝の陽光が差すダイニングで、薫がやたら難しい顔をして新聞に目を通していた時だった。
「あなた、病院、行ってくださいね」
 土曜の朝帰りも咎めず、それどころかこの二日間家に帰らず、今帰宅したばかりの女は冷たい声で言った。薫の妻、百合子だ。
「わかってる。土曜に予約を入れてある」
 新聞から目を離さないまま言うと、そう、という素っ気ない返事が返ってきて、すぐ後にパタンとドアの閉まる音が聞こえた。

 薫はコーヒーカップに伸ばしかけた手を止めた。胸がむかむかしてきたからだ。
 いっそもう帰ってこなければいいのに――

 百合子と結婚したのは二年前。当然のごとく見合い結婚だった。
 結婚を前にして彼女から出された条件はただひとつ。
 セックスは必要最低限にしてください。というものだった。
 彼女は、自分が男性よりも女性を好む性癖なのだと、あっけらかんと告白した。
 動揺しなかったわけはない。はっきり言えば、それは偽装結婚だ。薫は散々に悩んだが、結局は結婚に踏み切った。
 もともと、結婚なんてものに興味はなかったし、どう転んでも偽装的な結婚になるような気もしていたのだ。

 女は自分と結婚するのではなく、一ノ瀬という会社と結婚するのだ。自分は駒でしかない。そんなことはもう、小学生の頃からわかっていた。いや、わからされていた。
 どっちみち冷めた関係を結ばなくてはならないなら、いっそ百合子のような潔い女との方が何かと好都合だと思われた。なんせ彼女は、浮気をするならお好きにどうぞ。例え本気になろうとも、私は口出ししませんとまで言い切ったのだ。
 実際この二年間、薫の女性関係に干渉したことは一度もない。
 だから別に彼女に対しては、一切の愛情もない代わりに、憎悪もない。
 それでも胸がむかつくのは、病院という単語が原因だった。

 コーヒーは諦めて立ち上がり、新聞を畳んでテーブルに載せる。カップをシンクに置いてから腕時計を確認して、薫は車のキーを取り上げた。
 これから仕事だ。そう思うと不思議と胸のむかつきもましになる。意識せずとも背筋が伸び、たぶん顔つきも変わっているはずだ。
 つくづく仕事人間だな、そう思うと苦笑が漏れそうになる。
 生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのか。
 答えなんて知れている。
 少しだけ緩めていたネクタイを締めなおして、薫は重苦しい空気で満ちた部屋を出た。

 この数時間後、最悪な瞬間を迎えることとなるなど、その時の薫は知る由もなかった。


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