Scene 21


 好きじゃないわけは、ない。
 嫌いな相手に触れたいとかキスしたいと、思うはずがない。

 薫のことは好きだ。
 顔も好みだし、仕事に対する姿勢もストイックで好ましい。甘えられると弱いあの性格も可愛いし、プライドの高さも魅力だ。
 だから、薫のことは好きなのだけど、そう考え出すと焦燥感を抱く自分がいる。
 なんだろう、この感じ。

 ヒロと別れて、すぐ家に帰る気が起きなかった朋聡は、裏路地にあるバーに来ていた。照明のぐっと落とされた店内は落ち着く。
 グラスを握る自分の爪を見る。正確に言えばネイルチップ。控えめにラインストーンの付いた白いそれは朋聡のお気に入りだ。
 今日も可愛くできたのになー……
 なんて……
 あの日からなんだか変だ。
 ホテルで女連れの薫を見てから変だ。対抗心のようなものが湧き上がって、女装する回数が増えた。
 バカみたい。

 ふう、と小さく嘆息して席を立とうとした時、ふいに声をかけられた。
「橘君」
 一度聞けば忘れない厳しさと甘さを含んだ重低音。朋聡は振り返り、思ったとおりの人物を見る。
「社長……」
 立ち上がり、思わぬ再会に驚いていると、一ノ瀬進一郎は意味ありげな顔で微笑んだ。
「久しぶりだね、橘君」
「はい。お久しぶりです」
 答えると、進一郎の笑みはさらに深くなる。

「やっぱりな。そうだと思ったんだ」
「え?」
「見事な化けようだ、橘君。とても綺麗だよ」
 そう言われて、はっとした。
 薫以外にはこれが女装であることを知らせてなかったことと、女装した姿ではまだ社長に会っていなかったことを思い出したのだ。
 社長の耳にも当然、橘は双子でふたりで代理秘書を努めていると入っていたはずだ。これはさすがにまずいかもしれない。

 どうしたものかと顔を強張らせていると、進一郎は笑って、まあ座りなさいと促してきた。
「双子だなんて、胡散臭いと思ったよ」
 進一郎は笑いながら、バーテンに酒を注文する。
「あの、社長……」
「橘君」
 改めて名を呼ばれ背筋が伸びる。これはとうとうくびかもしれない。
 薫の顔が浮かんだ。

「社長、申し訳ありませんでした。今後一切このような格好で出勤しません。減俸でも謹慎にでもしてください。ただ、解雇だけは――」
 スツールから再び立ち上がり、深々と頭を下げて言うと、頭上から実に愉快そうな笑い声が降ってくる。
「俺はそんな狭量な男じゃない。それに、そんなに綺麗なんだから毎日それでもいいぞ。そうしたら俺もマメに社に顔を出す」
 顔を上げた朋聡の目の前で、薫に似た面立ちが優しい笑みを湛えている。朋聡は胸を撫で下ろし、スツールに座りなおした。

「それより君、薫の秘書なんかやめて、俺の秘書にならないか? 優遇するぞ」
 進一郎はウィスキーの入ったグラスを傾けて言う。
「いえ、私は……」
「薫なんかの傍にいてもつまらんだろう」
「そんなことはないです。代理の手腕は素晴らしいと思っております。部下のことも気にかけて、よく相談にも乗ってらっしゃるようですし」
「あいつは甘いからな」
「確かに優しい方です。しかし会議などでは震え上がるほど厳しいですよ。新人なんかは泣き出しそうになってます」
 そこで、進一郎は鼻で笑った。

「社長は、代理のことを……その、お嫌いなんですか?」
 どう訊いていいかわからず、単刀直入になった。それがおかしかったのか、進一郎が笑う。
「薫は俺のこと、嫌ってるだろう?」
 朋聡は黙ったが、それは肯定してるのと変わらない。
「薫は、見た目は俺によく似てるが、中身がまるっきり違うんだ。あいつは俺の大嫌いだった祖父さんにそっくりだ。頭が固くて、退屈で、年中難しい顔をしてる」
 朋聡はちょっと笑いそうになった。進一郎が思ってるほど、父子は似てなくはないと思ったからだ。意外に子どもっぽくて負けず嫌い。こんな風に批判する時の口調などそっくりだ。

「だからお嫌いなんですか?」
「ああ、そうだ」
 ウィスキーを飲んで、進一郎はまた鼻で笑った。
「つまらん男だ。あんなだから、離婚届をつきつけられたりするんだ」
「……え?」
 今のはなんだ? 聞き間違い? いや、進一郎は忌々しげにはっきりと言った。聞き間違えではない。でも、離婚届って?

「社長、離婚届ってなんのことですか?」
「ん? 薫から聞いてないか? 離婚するんだ、あいつ」
 朋聡はぽかんと、空白のなかに放り出された気がした。
 何も聞いてない。一言も。

 離婚って……重大なことだよね……?
 彼女ができた、別れた、というレベルの話じゃない。そんなことを聞いていなくても、こんな気持ちにはならない。
 でも、離婚だ。
 わざわざ役所に届けなきゃできないような、大変なことを、なぜ自分は知らされていないのか?

「それって、いつの話ですか?」
 声が震えそうになった。
「いつって、離婚か? まだ届は出してないみたいだが。本当に聞いてなかったのか? あいつ、何を考えてるんだ。秘書にぐらいちゃんと報告してるものと思ってたが――」

 進一郎の言葉は、途中から聞こえなくなった。
 どうして? どうして?
 すごく混乱する。
 怒っているのか、哀しんでいるのか、たぶんどっちもなんだろうが、とにかくぐちゃぐちゃな気持ちだった。

 いてもたってもいられなくなり、朋聡はスツールをひっくり返す勢いで立ち上がった。
「社長、すいません。失礼します」
 そんな短い言葉も言い終わらないうちに、朋聡の足は縺れそうになりながら、急いで出口に向かった。



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