Scene 22


 インターフォンに出たのは、いつものごとくハウスキーパーの女性だった。名を告げるとすぐに重厚な門が開く。
 今日ほどこの広い庭に苛立った日はない。玄関に着くまでの距離がもどかしく、朋聡は三十メートルほどの距離をヒールで走った。
 外は蒸し暑く、汗をかいた身体がべたべたして気持ち悪い。

「薫さん、どこにいますか?」
 息を切らしながら、玄関ドアを開けてくれたハウスキーパーに尋ねるが、彼女は朋聡の尋常じゃない様子にびっくりして、すぐには答えが返ってこない。
 苛々した朋聡が胸倉を掴みかかる寸前に、ようやく寝室におられますと言った。
 慌てて靴を脱ぎ、揃えることもせずに廊下を大股で駆け抜け、階段をどたどたと上り、二階にある寝室へ向かった。
 もう女装していることなど、すっかり忘れている。

 そのおかげで、部屋のドアをノックするまでもなく、薫が驚いて部屋から出てきた。
「薫さん!」
 大声で名前を呼ぶと、薫がぎょっとする。
「お前、なんなんだ、急に」
 うろたえる薫に構わず、朋聡は寝室に押し入り、突っ立ている薫の腕を引っ張った。
 それから、心配したのか、後ろをついてきていたハウスキーパーに、お茶はいりませんときっぱり言って、ドアを閉めた。

 部屋に入って、朋聡の怒りは一層増幅する。部屋の方々に段ボール箱が積み上がっていたからだ。
 むかむかして、朋聡は眉を顰めた。
 怒りを抑えて低い声で訊く。
「薫さん、引越しなさるんですか?」
 見渡してみると、部屋のなかには他にもおかしなことがある。妙な空間がいくつもあるのだ。例えば箪笥一棹、ベッド一床分くらいの。

「ああ、まあな」
 薫の返事は適当で、朋聡の頭に血を上らせる。
 せっかくセットしていた髪を掻き乱してしまい、ヘアピンかいくつか取れて落ちた。
「どうして急に?」
「別に……」
「……別に? 別にってなんですか? 俺には、教える必要などないってことですか?」

 徐々に気持ちが抑えられなくなってくる。いつもの余裕などとうに失っている。組んだ腕の上を、人差し指が忙しなく叩く。
 見据えた薫は、困惑した顔で見つめ返してくる。こうやって向き合うのは久しぶりのような気がした。
「まだ引っ越すまで間があるし、そのうちちゃんと言おうと思ってた――」
「そのうち?」
 朋聡は薫に詰め寄って、無遠慮に左手首を掴んで、自分の顔の前まで持ち上げた。

「ここに指輪がなくなったことも、そのうち教えてくれるつもりだったんですか?」
 大声で責めたてる朋聡の声を聞いて、薫の黒い瞳は見開かれた。それから、さっと逸らされる。表情が苦悶に歪んでいくのは、朋聡が握り締めた手首が痛むからか、それとも心が痛むからか。
 ところどころに空白の開いた歪な部屋は、気まずい沈黙で重たい。
 怒りから哀しみへ、哀しみから虚しさへ、心は時化た海のように朋聡を苦しめる。
 感情のコントロールがこんなに難しいとは知らなかった。堰を切って溢れ出す泥のような感情を抑える術も、回避させる術も知らないから、それはそのまま目の前の男にぶつけられる。

「どうして黙ってたんです? 離婚なんて大変なことをどうして? だいたいなんで離婚するんです? ねえ薫さん」
 薫は答えない。
 答える気さえないように、ただ床を見ている。
 悔しくて、朋聡は大声を出す。
「薫さん! 聞いてるんですか?」
 手首を揺さぶってみても、薫は応えない。
 焦燥感に襲われる。それは怖いくらいに、朋聡を追い込む。胸がざわざわして、どうしようもない。

 ドンという低い音がした。
 朋聡は薫を壁に押し付けていた。  あの夜と同じ体勢。両手を縛り上げていたのが、左のみになったというだけだ。
 どくどくと心臓が喚く。
 握った手首に力を込め、強引に口づけた。
 抵抗しようとした右手も封じて、朋聡は乱暴に唇を貪った。
 嫌がって、薫が呻く。それさえ飲み込んで、朋聡は舌を割り入れた。喉までしゃぶる勢いで押し込む。

 身体を密着させ、口腔を蹂躙する。薫は苦しそうな吐息をもらす。いつもなら興奮するはずのそんなことが、今日は痛い。さっきからどろどろになっている心に杭を刺す。
 胸の苦しさに耐えかねて顔を離した朋聡は、さらに打ちのめされた。
 薫の瞳が濡れていた。辛そうな顔をして、唇を強く噛み締め、薫が涙を堪えていた。
 名前を呼ぶことさえ憚られ、朋聡はどうしていいかわからず立ち尽くす。

「秘書に……」
 しばらく続いた重苦しい沈黙を破って、震える声で、薫が小さく言う。
「秘書に、離婚を伝えなかったのは俺が間違っていた。すまなかった」
 声には抑揚がなく、感情も感じられない。冷たくて形のない、冬の冷気のようだ。
「薫さ――」
「引越し先は南青山のマンションだ。来週末には向こうに移る」
 薫はずっと顔を逸らしたまま、事務的にそう言った。

「わかったら、帰れ。俺は忙しいんだ」
 言い捨てて、部屋を出て行く。
 結局最後まで、薫は泣かなかった。



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