Scene 24


「本当にお世話になりました」
 橘が家に押しかけてきた日から三日後の、月曜日。祝日のこの日、薫は家の門の前で二年間ほぼ毎日顔を合わせた女性、ハウスキーパーの吉野を見送っていた。
 日差しはないが湿度が高く、むっとした嫌な気候で、吉野は藤色のハンカチで額の汗を拭って言う。
「こちらこそ、お世話になりました」
「突然のことでご迷惑をかけてしまって、申し訳なかったですね」
「いえいえ。私のことは本当にもう、お気を遣わず。それより旦那様、あまり無理をなさらないでくださいね」
 吉野は心配そうに微笑む。
 金曜日からずっと、ろくに眠りもせず引越しの準備をしていたことに、どうやら気づいていたらしい。

「大丈夫ですよ。もう荷物は片付きましたし、後は業者に全部任せますから」
 そう言うと、彼女は困ったような笑顔を見せ、それから深くお辞儀をした。
「お世話になりました。お体に気をつけて」
 そう言って、待たせていたタクシーに乗り込んだ。
 車を見送った薫は、我知らずため息をこぼしていた。
 振り返り、見えるのは他人行儀な我が家。結婚を期に新築した、広さとセキュリティーが自慢の家は、今や盛大な無駄にしか見えない。
 だから離婚を決心すると同時に引越しも決めた。
 デザインにいくらか関わった薫としては、愛着がないことはないが、出て行くことに郷愁はない。
 寧ろせいせいしている。

 ひとりには……ふたりにだって大きすぎた。それに気づかなかったのは、きっとふたりじゃなくて、ひとりとひとりだったからだ。
 ひとりとひとりが、互いにテリトリーを持って生活していたから、広すぎるとは気づかず、狭いとさえ感じていた。毎日息苦しくて、不自然だった。
 思い立って、左手をじっと見てみる。
 その薬指には当然もう指輪はなく、跡さえ見当たらない。愛人に会うたびに外していたせいだろう。
 ふっと、笑いがもれた。
 不思議だ。
 結婚していたことが嘘だったみたいだ。百合子に対する感情も、すでに乏しい。
 あの二年は、この家以上に無意味なものだった。薫にとっても、百合子にとっても――

 厚い雲が太陽を隠して、辺りが暗くなる。なんとなく不安になって、玄関に向かう。
 ぽつり、と雨粒が頬に当たった。
 じくじくと、頭が痛み出す。
 空を見上げてみれば、雲は暗く厚く、空全体を覆い隠している。

「雨、か」
 薫は書斎にしている部屋の、机の引き出しにしまわれたものを思った。
 一ヶ月ほど前、目を逸らしたあの紙。
 もう空欄はない。
 それは今日これから、薫の手によって役所に出される予定だ。
 あれを出しさえすれば自由になれる。
 本当の意味の、ひとりになれる。
 最初からずっと、ひとりだった。今からは正しいひとりになる。

 玄関先で足が止まる。遠雷が聞こえた。
 再び見上げた空からは、次々に雨が落ちてくる。
 男の顔が浮かぶ。それはずっと心にあったもので、雨を知ってその輪郭を増した。
 雨は嫌いだ。
 雨が、嫌いなんだ、橘。
 橘……

「……朋聡」

 初めて、その名を口にした。
 呟いた瞬間胸が苦しくて、切なくて、死んでしまうかと思った。
 瞬く間に涙が溢れて、喉の奥が痞えた。
 どうしようもなく、哀しくて苦しくて、寂しい。

 会いたい。
 どうしても、会いたいと思ってしまう。
 金曜の夜交わした口づけを思い出すと、胸が軋む。
 離婚を伝えていなかったのは、忘れていたわけでも、伝えなくてもいいと考えたわけでもない。
 言えなかった。彼にだけは言えないと思った。
 既婚者という壁が失われるのが怖かった。
 歯止めが、効かなくなりそうで……

 雨が落ちてくる。
 哀しい男を哀れんでいるみたいだ……

 ひとりでは、耐えられない。
 薫はスラックスのポケットに入れていた携帯を取り出してアドレスをくり、適当に選んで通話ボタンを押す。
 誰でもいいから傍にいて欲しい。
 今日だけ、今日だけだと自分に言い訳をしながら、薫は耳鳴りみたいな呼び出し音を聞いていた。



前へ noveltop 次へ