Scene 25


 ワイパーが振り払う雨の雫が、時間を経るごとに増えている。
 カチカチというウィンカーの音と、助手席に座る女の話し声。どちらも今の薫には耳障りに感じられる。

 頭が痛い。

「……でね、薫さんもご覧になったらいかがかしらと思って」
 何の話だったか? 少し考え、記憶を手繰り寄せている間にまた頭痛が増して、面倒になる。
「ええ、またいずれ」
「……聞いてらっしゃらなかったんですね、薫さん。千秋楽は明日だって申し上げたのに……どうなさったんです? 具合でも――」
「いや、すいません。大丈夫です」
 笑顔を作れば、ため息を返される。

 どうもうまくいかない。
 そう言えば、十日ほど前ホテルで咎められたのも、彼女、美沙子にだった。
 今夜、彼女と会ったのはたまたま。たまたま開いたアドレス帳に、その名があっただけだ。
 胸がきりと痛んだが、どうしようもない。

 ひとりではいられない。
 利用できるものを利用しているだけ。美沙子だって同じ。
 今彼女の腕に光る、華奢なプラチナのブレスレット。それを渡した時ほどいい顔は、今夜はもうしないだろう。いつだって、どんな女だって変わりはない。そういう女としか付き合っていないのだから。

 信号が変わり、ハンドルを切る。右折した先に、ホテルがある。
 ほんの少し前、離婚届を出したばかりだというのに、もう別の女とホテルに行こうとしている。本当に最低だ。
 車を降り、ポーターにキーを預けて、美沙子の手を引く。習慣的な行為なので、目を瞑っていても、眠っていてもたぶんできる。
 雨は一向にやみそうにない。
 頭が痛い。

 結婚式でもあったのか、ホテルのロビーは色とりどりに着飾った女性や、スーツ姿の男性で賑わっていた。
 薫が結婚したのも七月だった。真っ白なドレスを着た百合子は綺麗だったが、その白さが嘘っぽくて、皮肉な気持ちになったのを覚えている。
 華やかな人々の横を通り過ぎ、エレベーターホールに急ぐ。幸せそうな雰囲気にのまれたくない。
 けれどその足は、直後ぴたりと止まった。

 一メートルほど先、口を開けたエレベーターに橘が乗っていたのだ。
 彼を認識した瞬間、薫は硬直し、思考までも止まった。
 それは向こうも大差なく、エレベーターから一歩も降りてこれずにいる。

 どうして?
 橘の顔にそう書いているように思えた。おそらく、自分も同じだろう。

「……薫さん?」
 美沙子が怪訝な声を出した頃、エレベーター内の橘も、呆然としたままようやく箱から降りてくる。その時はじめて、彼がひとりではなかったことを知る。
「どうしたの朋?」
 橘の背後にいた男は甘えるような声を出して、おずおずと袖を引いた。
 小柄で、顔の整った若い男だ。

 橘の性癖を知らなければ、ふたりは友人にでも見えただろうか?
 どう見ても普通の関係じゃない。
 男のしな垂れかからんばかりの態度や、潤んだ瞳がそれを物語っている。拭いきれないセクシャルな雰囲気が、ふたりの間に漂っている。
 ざわざわと、胸が愚かに騒ぐ。
 騒いだって、どうしようもないのに――

 足はいまだに動かない。
 橘のほうも、エレベーターを降りたところから動いていない。互いが互いをじっと見つめている。
「朋?」
 また、橘の隣に立つ男が不安げに呼ぶ。

 それは誰だ? やっぱり橘はそういう男なのか? その男とはどんな関係だ? そいつとも、大人の関係なのか?
 露骨な疑問が頭を支配する。
 スーツでも女装でもない男は、今まで知っていた橘朋聡とは別人に見えて、無意識に逃げ出そうとしたのか、薫の足は後ろへ一歩後退っていた。

「薫さん、何か不都合なことがあったなら……」
 愛人らしい嗜んだ美沙子の声にはっとして、薫はなんとか自分を立て直した。
「いえ、大丈夫です」
 それが合図になって、橘の表情も変わる。それはやはり、薫が見たことない大人の男の表情だった。

 橘は他人の顔をして、薫の横を通り過ぎる。
 薫はそれを見ないふりで、新たに到着したエレベーターに、美沙子をエスコートしながら乗り込む。
 その瞬間は白々しくて、まるで下手な映画を見せられてる気分だった。



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