Scene 26 エレベーターが静かに上昇していく。 「薫さん、本当に大丈夫ですか?」 気遣わしげな美沙子の声を聞き、薫はまだ心をどこかに持っていかれたままの自分に気づいた。 どこかに、というのは欺瞞だ。 本当は、今心がどこにあるのか、自分が一番わかっている。 薫は美沙子に目線を向けて、大丈夫だと言おうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。しかたなく、曖昧な笑みを浮かべた。それさえも、引きつっていただろう。 頭が痛い。 エレベーターが目的の階に到着する。毛足の長い絨毯の敷かれた廊下を歩く。 部屋はいつも薫のために空けておいて貰ってる、薫の自室のようなものだから、無意識でも到着できる。だけど足取りが重い。このまま到着したくないような気がしていた。 頭のなかは、さっき見た橘とその隣の男の顔が占領している。 頭が痛い。頭が、痛い。 ドアの前に立ち、カードキーを差しこもうとして、限界が来た。 胃がぎゅっと収縮して、急激に吐き気が上ってきた。 もう無理だ―― 「……美沙子さん、あの……申し訳ないんですが今夜は――」 湧き上がってくる嘔吐感を我慢してそこまで言うと、彼女は眉根を寄せて、ハンドバッグからハンカチを取り出して渡してきた。 「顔色が悪いですわ。あまりひどいようなら、病院に行ってくださいね」 「……すいません」 罪悪感からハンカチを受け取ることも、顔を上げることもできないでいる薫に、美沙子は苦笑する。 「本当に、可愛くない人」 言葉どおり責めているようにも、悲しんでいるようにも聞こえる声だった。 彼女は薫の返答を待たずに、背中を見せた。こんな形で誰かの、特に女性の背中を見るなんて初めてだ。 男として女性と付き合うようになって、もう十年以上、ずっと薫は完璧だった。約束や、彼女の誕生日を忘れたことなど一度もなかったし、他の女性といるところを目撃されたり、悟られたりすることも、ずっとなかった。 彼女たちを怒らせたことはもちろん、少しでも不快にさせたことすら、ずっとなかったのに―― 橘のせいで崩れていく。 橘のせいで、おかしくなった。 薫はドアの前で立ち尽くしたまま、どうすることもできないでいた。 胃は不快を訴え、蟀谷は鈍痛が去らない。けれどそれらよりずっとひどい苦痛が、胸を、心をめちゃくちゃにしている。 どうしてあいつなんだ? どうしてあいつの顔ばかり浮かんで苦しいんだ? どうしてあいつに会いたくてしかたないんだ? おかしい。こんなのおかしい。 親父が勝手に敷いたレールにも、それを捻じ曲げて作った道筋にも、こんなルートはありえなかったはずなのに。 どこでどう間違えたかは明白だ。 戻って―― 戻って、やり直したい。 「……くっ」 小さく呻いて胃の辺りを手で押さえた。触れたシャツをぐしゃりと握る。 吐きそうだ。 頭が痛い。 苦しくて、息ができない。 倒れそうになり、咄嗟にドアに手をついた時、ドンというその音と同時に声が聞こえた。 「……薫さん」 振り向くと、そこにいるはずのない男がいる。 薫はぼんやりと、まるで幻影でも見るようにそれを見た。 どういう顔をすればいいのかわからない、というような複雑な顔で、彼はゆっくりと歩いてくる。 橘―― 唇は動いたが、声は出なかった。 呆然と見つめているうちに、男は目の前までやってきて、もう一度名前を呼んだ。 「薫さん、こんなところで何してるんですか?」 いつものからかうような口調と、子どもに向けるような、柔らかな眼差し。 薫の身体は勝手にそれを求めて傾いだ。 倒れそうになる身体を、橘が引き寄せて受け止める。 橘の胸は、今まで感じたことのないぬくもりだった。 背中に回された橘の手のひらが、あやすように背中をぽんぽんと軽く叩く。 何をしている? 頭のなかで自分が言うのに、身体は動かない。 「気分が悪いんですか?」 面白がった声が聞こえた。 どうせ違うとわかっている。 彼がそれをわかっていると知っていても、薫は頷く以外できない。 「丁度いいですね。目の前に休める場所がありますよ」 言われて、手に持ったままだったカードキーをそろそろと男の胸に押しつけた。 |