Scene 27


「……薫さん」
 耳元で、切なげな声が名を呼んだ。
 もう何度目だろう?

 部屋に入り、どうしていいかわからず立ち尽くしていた薫の背中を、橘が急に抱きしめた。壊れそうなほど強い力で抱かれ、名前を呼ばれた。
 薫は黙ったまま、胸に回った橘の腕を握る。
 背中が熱い。
 耳が熱い。
 橘の温度を感じて、橘の香りを感じて、鼓動がどんどん早くなる。

「薫さん」
 俯くと、うなじに唇を押し当てられた。その唇が熱くて、橘の腕を強く握った。
「……どうして、来たんだ?」
 エレベーターホールですれ違ってから、どれぐらいの時間が経っただろう? 橘がまだホテルにいるとは思っていなかった。まして、再会しようとは……
「なんだか、帰るに帰れなくって……ロビーでうろうろしてたら、一緒にいた人がひとりで出てきたから……」
 少し間を置いて、橘は続けた。
「薫さんが、俺のこと呼んでるのかなって思ったんです」
 ちょっと笑いながらそんなことを言われ、薫は身じろいだが、抱きしめる力をさらに強くされて、どうにも動けなくなった。

「逃げないで、薫さん」
 またあの切ない声で言う。
「薫さん、こっち向いてくれませんか?」
 橘は腕の力を緩めて言ったが、薫は首を横に振った。
「どうしても嫌?」
 今度は縦に首を振る。
 小さな笑い声が聞こえた。
「それなら、このままでいいです」
 そう言って、またぎゅっと抱きしめられた。

「薫さん、さっきの人愛人ですよね?」
 少し迷ったが素直に頷くと、愛人はあの人だけですか? と訊かれた。
 部屋の控えめな照明が照らした自分の靴をじっと見て、薫は首を横に振った。正確な数までは、橘は訊いてこない。
 分厚いカーテンの向こうはおそらくまだ雨だろうが、音は聞こえてこない。橘が声を出さない間は、部屋は無音になる。
 少し不安になって掴んだ腕に力を入れると、橘は囁くように言った。

「愛人と、別れてくれませんか?」
 身体が勝手にぴくりと動いた。それに呼応して橘が腕に力を込める。
「別れて、ください」
「……どう、して?」
 喉からなんとか出した声は、情けないほど掠れていた。

「嫌だからです。薫さんが、他の人とセックスしたり、キスしたり、想像するとおかしくなる。嫌なんです。俺以外の人があなたに触れることが許せないんです」
 一気に言われ、薫の心音が高くなる。
 あまりに胸が苦しくて応えられずにいると、橘は薫の肩に額を載せて、もう一度、別れてくださいと繰り返した。その声は真剣で、その上少し泣きそうで、薫の胸を震わせた。

 どう、すればいいんだ?
 こんな、何を――
 頭が回らない。酒に酔った時よりずっと鈍くて、まとまらない。
 胸がどくんどくんとうるさい。

「お……お前は?」
「なんですか?」
「お前は、わか、別れるのか?」
 言葉もうまく繋がらないし、声も上擦りそうになる。喉が痞えてるから、うまく喋れない。
「誰とですか?」
 とぼけている。そう思うと腹が立った。

「さっきの、男とだ」
 むっとした声に、橘がくすりと笑う。薫は腕から抜け出そうともがいた。しかし、さっき同様すぐに抑えられる。
 強く抱きしめられて、胸があえぐ。
 変だ。身体をコントロールできない。

「別れて欲しいですか?」
「…………」
「俺が、誰かとキスしたり、セックスしたりするの嫌?」
 黙っていると、橘は例の甘い声を吹き込んでくる。
「例えば、さっきの子とキス、したり。舌を絡ませ合ったり、身体中舐めまわしたり……触れ合って、感じ合って……」
 纏わりつくような言い方に否が応でも想像させられて、薫の胸がどくどくと、さっきまでとは違うざわめきをたてる。

 醜いこの感情の名前を、知らないほど馬鹿じゃない。だけど実際こんなにも強く感じたことはない。どうすればいいかわからず、とまどいと苛立ちから逃げたくて、薫は今度こそ橘の腕から抜け出した。
 けれどそれは明らかに失敗だった。
 自由になったと思った次の瞬間には、腕を引かれて身体を反転させられていた。
 事態を把握する間もなく、顎を掴まれ瞳を覗かれる。

「薫さん、答えてください」
 深海色の瞳は真っ直ぐに見つめてきた。真っ直ぐすぎて、逸らすこともできない。
「俺が他の人とセックスするの嫌ですか?」
 答え、られない。
 自分のなかには答えがある。でも、それを口に出すことができない。
 唇を開こうとしてうまくいかず、薫はそれを噛み締めた。
「頷くだけでいいですよ」
 橘は優しく言う。
 ドアの前で見た、子どもを見るような目に促され、薫は本当に子どもみたいにこくりと頷いた。

 みるみる、橘の表情が変わる。
 見開かれたと思った瞳が細められ、笑ったかと思うと、泣きそうに歪む。
「約束します。薫さん以外とはセックスもキスもしない。触れもしない。口説きもしない。だから薫さんも、俺以外に触れさせないでください」
 目で返答を求められ、薫はまた頷いた。途端に、抱きしめられる。

「軽くない言葉」
 橘が言う。
「やっと、わかりました。俺が薫さんに言うべき言葉」

 とくん、とくん。
 胸がカウントダウンするように脈を打つ。
 すっかり赤くなった耳に、唇が触れる。
 蕩けそうな甘い声が、眩暈を起こす言葉を紡ぐ。

「愛してます、薫さん」



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