Scene 28


 音が……
 耳のなかを犯す音が、思考を奪っていく。
 形をなぞるようにねっとりと舌が耳を舐め、くちゅりと音をたてる。

「薫さん……」
 吐息交じりの甘い声が名を呼ぶ。薫は橘のシャツの裾を強く握った。
「ねえ、ベッド……行かないんですか?」
 熱っぽい問いかけに、薫は唇を噛んで無言の否定を返すしかできない。
 愛してるという言葉を囁いた橘は、そのまま耳たぶにキスをした。キスをして、緩く噛んで、舌を這わせた。
 誘われていることぐらい、わかるけれど……

「床でするのがいいんですか?」
「ちが――」
 違う、と言うとイコールベッドでしたいということになってしまう。薫はどう言ったらいいかわからなくなり、ふいと顔を逸らした。

 うまくいかない。
 セックス、したくないわけじゃない。
 寧ろ、たぶん……

「素直じゃないと、苛めたくなるからダメですよ、薫さん」
 そう言って、橘は少し強く耳を噛んだ。
「俺のS心を刺激しないでください」
「……Sって?」
 あながち冗談でもなさそうな声音に思わず聞き返すと、橘は自嘲めいた笑いをもらした。
「俺はもともと、縛ったり、傷つけたり、泣かせたりするのが好きなんです」

 逸らしていた顔を戻し、瞳を見つめると、それは少し哀しげに細められた。こんな顔は初めて見る。
 とまどい言葉を探していると、その理由を勘違いした橘が切なげに笑う。
「薫さんには、そういうことしませんから安心してください」
「……橘」
 薫はなぜそうするのか考える余裕もなく、男の背中に腕を回していた。
「薫さん?」

 肩口に頬を寄せると、長めの襟足が触れる。
 何も言う言葉がなく黙っていると、橘が腕を腰に回してきて、嬉しそうに言う。
「薫さん、俺のこと抱きしめてくれてますね」
 やまない雨に鈍く痛む蟀谷に、そっと唇が触れる。
「薫さん、俺のこと好き?」
 耳元で訊かれる。
 どきりと跳ねた心臓が胸をつまらせる。

「ねえ、薫さん」
 追いつめられる。
 だけど言葉は出てこない。
 なぜこんなにうまく振舞えないのだろう? 自分の気持ちが確かなものだとはわかるのに、それを伝える手段を、薫の身体は知らないのだ。
「薫さん、お願いですから答えてください」

 静かな声は不安に揺れている。どきどきと切迫した胸がようやく言葉を吐き出すが、それは薫の求めるものでも、当然橘が求めるものでもないものだった。
「そんなの、言わなくてもわかるだろう」
 泣きそうになった。
 情けなくて、歯がゆくて、胸がつまって。
 好きだという、たった三文字が言えない。
 上辺だけなら、何度か言ったことがある。その時はするりと、考えなくても口にできたのに……

 橘は何も言わない。
「……だって……」
 だって、なんだと言うのか? 自分でもわからない。ただ、だってと言わずにはいられなかった。まるで子どもだ。
「だって?」
 橘がくすぐるような声で訊き返して来た。薫が黙ったままでいると、蟀谷に、今度はちゅっという恥ずかしい音をたててキスをしてきた。それから、しかたないなーと言って笑う。

「困った人ですね、薫さんは」
「だ――」
 また「だって」と言いそうになって、薫は慌てて口を噤んだ。途端にくすりと笑われる。
 もう嫌だ。

「薫さん」
 身体を離し、橘が顔を覗き込んでくる。それから薫が顔を逸らす前に、
「愛してます」
 と、優しい顔で言った。
 おかげで、顔を背けるタイミングを逃し、じっと瞳を見つめてしまった。

 頬に熱が上がってくる。
 心臓が壊れてしまいそうだ。
 なのに、
「愛してます、薫さん」
 橘は、殺そうとでも思っているのか、熟した果実みたいな「愛してます」を繰り返す。

「も、もうわかった!」
 身体が熱かった。
 言葉だけで煽られて、中心が火照っていた。
 こんなの、どうしていいかわからない。
 今まで知らなかったところに火を点けられたみたいだ。
「薫さん」

 瞳を探られる。
 自分でも、そこが潤んでいるとわかる。
 欲情していると悟られる。そう思っていると案の定、シャツのボタンが上からひとつずつ、丁寧に外されていった。
 そんなことだけで震えそうになる。
 半分ほど外したところで、今度はジャケットを脱がされた。

 されるがままになるしか、薫にはできなかった。橘の部屋の玄関で触れ合った時のように、積極的になるなんて、とてもできない。蕩けそうになる身体と意識を繋いでおくだけで必死だった。
 橘は何も言わず、優しく手を引いてベッドに誘う。よろけそうになりながら、薫はそれに従った。
 ベッドには自分で上がったが、横になるともう恥ずかしくて橘の顔を見れなかった。
 覆いかぶさってきた橘が、残りのボタンを外している。

 照明は優しいオレンジ色で明るくはない。だけど薫にはスポットライトを浴びせられているぐらいに感じられて、消して欲しくて堪らなかったが、そんな乙女みたいなことを口に出すこともできない。
 ただただ顔を背けて、雨模様であろう夜の街を隠すカーテンを見ていると、名前を呼ばれた。
「薫さん、俺のも脱がしてくれませんか?」



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