Scene 29


 少し迷って、薫はよろよろと手を伸ばした。が、顔を背けたままなので、なかなかシャツのボタンを見つけられない。
 宙を舞っていた腕を橘が捕らえる。
「こっち見て、薫さん」
 ぐいと腕を引かれる。
「薫さんの顔が見たいんです」
「……嫌だ」
「ダメです」
 強く手首を握られた。

 観念して少しだけ目を合わせると、嬉しそうに微笑まれる。さらに顔が熱くなって、やっぱり無理だと目を逸らす。
 今時、処女でもこんな反応はしないんじゃないかと、自分でも思う。でも、ダメなのだ。どうしても、橘の顔が見れない。
 目一杯逸らした顔の顎のラインを指で辿られ、腰が浮きそうになった。
 こんな反応も、処女のそれだ。
 またパニックになって、泣きそうになる。

「ホントにもう」
 橘の呆れた声が耳に響いて、びくりとした。
「こんなに大変なセックスは初めてですよ」
 ぎりり、と胸が切り裂かれたかと思った。咄嗟に、薫の手は橘のシャツを握り締めていた。
「薫さん?」
 心許なくて、両手でシャツを握る。

 言葉が、口をつく。
「嫌にならないでくれ」
 言ってから、感情が追いついてくる。
 感じたことのない大きな不安がこみ上げてきて、気管がつまったようになった。

「が、んばる、から……俺を、嫌になるな」
 必死で言葉を紡いだら、橘が眉間に唇を寄せキスをした。そうされてみて、自分が痛いくらいに眉根を寄せていたことに気づく。
「嫌になんて、なりませんよ。本当に、可愛い人ですね。可愛くて、困った人」
 指で前髪を梳かれる。橘の顔は恥ずかしくなるぐらい優しくて、胸をときめかせる。
 美沙子に、可愛くない人と言われたのはついさっきだ。薫だって自分が可愛いなどとは思わない。可愛いなんて言われたら、普通はバカにしてるのかと怒りたくなるはずなのに、橘に言われるのはそんなに、悪くない。

 好きだ。

 心のなかで言う。
 聞こえないはずなのに、橘は静かに頷いた。
「薫さんは口よりも、目のほうがお喋りですね。目がずっと愛してるって言ってくれてる」
 そんなことを言われて、おもしろいくらいに目が泳いでしまった。
 本当にもう、格好悪い。

 片手を薫の腰に伸ばして、橘がベルトを外しはじめた。薫はおずおずと手を伸ばして、彼のシャツのボタンに手をかけた。
 ひとつ、ふたつと外していくと、中からするりと十字架が垂れてくる。
 それは一目見ただけで長年身につけられてきたものだとわかる、キリスト像のついたものだった。

「お前、クリスチャンなのか?」
 何も考えずに問うと、橘は一瞬苦い顔をした。
「神様に背いてばっかりですけどね」
 いつも通りおどけたつもりらしいが、表情は硬い。
「いつもはちゃんと外すんですけど、忘れてたな」
 えへへ、と笑う。

「……橘」
 呼びかけには応えず身を起こして、彼はネックレスを外した。
「隠してるのか?」
「別に、そういうわけじゃないですよ」
 少し早口で言う。
 橘はベッドから降りて、外したネックレスをサイドテーブルではなく、わざわざ窓際のコーヒーテーブルに置いた。

 戻ってきた橘は、またえへへと笑った。
「こう見えて、教会とか行ってるんですよ。家族みんなで。昨日も行ったんです。意外でしょ?」
 えへへ。
 また笑う。

 胸が痛くなって、薫の身体は勝手に動く。
 不器用に笑む唇をキスで塞いだ。
 初めて自分からキスをした。
 重ねるだけのそのキスは、たぶん中学生の頃したファーストキスより下手だったが、今まででいちばん求めてしたキスだ。

 唇を離すとやっぱり顔が見れず、背中に手を回して橘の身体を抱き寄せた。
「罪悪感は隠さなくていい」
「薫さん?」
「その半分は俺が背負ってやるから、ちゃんと見せろ」
 橘は黙った。勢いでそんなことを口走った薫も恥ずかしくて、もう言葉がでなかった。

 しばらくの沈黙の後、橘が言う。
「ありがとう、薫さん」
 柔らかな声。
「俺、月曜日がね、苦手なんです。毎週日曜に教会へ行くでしょ? 自分がすごく悪くて汚い人間なんだって、毎週思い知らされて、その日は家族と一緒にいるから、落ち込む暇もないんですけどね、月曜日になると、思い出しちゃうんです」
「そうか……」
 気の利いた言葉のひとつも浮かんでこず、薫はもどかしく思いながら、橘の身体を抱きしめた。

「弱っちくて、格好悪いでしょ?」
 哀しく笑いながら言うから、薫は首を横に振る。
「そんなことない」
「じゃあ格好いい?」
 精一杯弾んだ声が言う。
「……バカ」

 橘の笑い声が耳をくすぐる。
 抱き合った胸のあいだで、ふたつの鼓動が鳴っている。
 こうしていると、とても温かい。
 身体よりも心が、満たされて温かい。

 いとおしい。
 一言で言うと、そんな感じだと思う。
 いとおしい。愛してる。

 言葉にできない感情が胸を切なく締めつける。

「薫さん、俺の神様になってくださいよ」
 突然、橘が言った。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ」
「でも神様って……」
 悩んでいると、
「なんてね」
 と、橘が笑う。
 それから、冗談だったのかと怒る間もなく、首筋に甘く噛みつく。

「愛してます、薫さん」
 耳に吹き込んで、耳朶を食む。
「続き、しましょう?」
 言って、外しかけていた薫のベルトに再び手がかかる。薫もそれに倣った。



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