Scene 4


 内線で連絡があってから、数分もたたないうちにノックが響いた。
 今日新しい秘書がやってくることはもちろん知っていたし、それがライバル会社からの引き抜きだということも承知していた。当然自分の直属になるのだから、詳しい資料は隅々まで読んでいたのだ。
 なのになぜこの事態を回避、とまで言わなくても、せめて予測することさえできなかったのか? それはひとえに写真を見ていなかったから、ということに尽きる。
『すいません、代理。貼られていた写真が紛失してしまいまして』
 あの時そう言ったのは、秘書課の課長だっただろうか?
『まあ、しかたない。先方には謝っておけよ』
 自分はそんな風に返した覚えがある。

 なんてのんきだったのだろう。
 こんなことになるなら、あの時もっと探させておけばよかった。もしくは再送させればよかったか?
  「代理? どうなさいました?」
 のうのうとそう言って笑顔を見せた相手を、薫は睨みつけずにはいられなかった。
 しかし悔しいことに、何も言えない。
 心のなかには言いたいことが溢れかえっているというのに。
 お前、金曜の夜俺に何をした? とか――

 そうなのである。
 二日間薫を悩まし続けた、薫の身体に今も残る卑猥な跡を残した、その男がまさに今目の前に立っている。
 最も不愉快なのは、あれが夢でも幻でもなかった、ということである。
 だって、男は現にこうして存在しているし、微かにあの香りまでさせている。その上入室して開口一番に、また会えましたね、と英語で言ってきたのだ。
 それになにより、この笑顔。

「また会いましょうって、書置きしたでしょ?」
 わなわなと唇が震えて、自分が二本の足で立派に立っていることさえ不思議なほど、薫は動転していた。
「お、お前――」
「橘です。橘朋聡。さっき名乗ったでしょう? それに、金曜の夜も」
 ああ、もう、なんなんだ一体! なんの天罰だ? 試練か? なんでもいい、早く終わってくれ!
 けれど、いくら薫が願っても現実は終わるわけがない。そう、現実なのだ。
 今目の前でにやつく男の存在も。彼がこれから自分の秘書として嫌でも始終傍にいることも、金曜日、不埒な夜をこの男と共にしたことも――
 消しゴムでもデリートキーでもリセットボタンでも消せない、現実なのだ。

「そんな人生の終わりみたいな顔、しないでくださいよ」
 薫とは正反対に、橘は実に楽しそうだ。
「互いに大人なんだし、ね」
 大人だから、大人だったらなんだって言うんだ、とは言い返せない。
 同意の上、だったのだ。

 酔っていても、嫌だったら絶対に拒否できないはずはない。薫は決してごつい身体つきではないが、身長としては百八十を超えているし、空手に柔道に剣道、全ての有段者だ。いくら橘のほうが若干上背のありそうだと言えども、彼もまたどちらかと言えば細身だ。逃れられないことはない。
「別に、少し驚いただけだ」
 なので、こういう風に強がるしかない。
 こうやって、薫の人生最悪の日々は幕を開けたのだった。



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