Scene 5


 何が歓迎会だ。歓迎なんてしてないっていうのに――
 上座に座らされた薫は、至極不機嫌だった。
 入れ替わり立ち代り酌をしにくる部下たちには愛想笑いでつくろっていたが、気を抜くとすぐに眉間に太い皺ができた。

「代理ったら怖い顔―」
 無遠慮に頬をつつかれて、薫は一層不愉快さがありありとなった。
「誰のせいだと思ってるんだ?」
「やっだー。もしかしてー、あたしのせい?」
 もしかしなくても、それ以外に何がある!
 わざわざ声に出さなくても、そんな薫の心の声は充分相手に伝わった。
「そうカリカリしないでください、代理。折角のあ・た・しの歓迎会なんですから」

 あ・た・し――
 薫は頭痛を覚え、ビールジョッキを一気に煽った。
 そんな薫を見ながらにやにやしているのは、間違いなく橘朋聡だったが、彼の一人称は今『あたし』で、姿かたちも薫が初めて見た時の橘では到底なかった。
 元々少し長めの襟足にはエクステンションをつけ、爪にはごてごてと装飾がされて、服装は白いシャネルスーツ。そして、顔には完璧なメイクが施されている。
 とどのつまり、女装だ。

 これは別に今だけこうなっているわけじゃなく、橘が入社した次の日、薫の自宅に迎えに来た時は既に、こういう格好をしていた。
 あの日、玄関先で薫が硬直し、開いた口がしばらく閉じなかったのは言うまでもない。
『社員の服装は基本的に自由。各自の判断に任せる、という社風なんでしょ?』
 茫然と立ち尽くす薫に、橘はのうのうとそんなことを言って微笑んだ。
 確かに、そういう方針はある。
 世間がクールビスと騒ぎ出す前から、薫はノーネクタイで出社していたし、企画部なんかを覗けば、ここが大手企業だとはわからないような色とりどりさだ。
 でも、それとこれとでは話が違う。
 男性社員がノージャケットだったり、女性社員が愛らしいワンピースで出社してきたりするのとは、訳が違いすぎる。
 やつは男なのだ。男が女の格好をしてくるなんて、社風とかそういうこと以前の問題だ。

 その日は何をどう言ってやったらいいのかわからないまま過ぎ、彼が二度目の女装をしてやってきた今朝も、似たようなものだった。
 唖然とする以外に、どうしたらいいかわからない。二十七年間の間に知らず積み上げられてきた常識や社会通念が指先ひとつで壊されるような衝撃のなかで、どう対処すべきかなど、考える余裕は微塵もない。
 ところが驚いたことに、他の連中は橘の女装をすんなりと受け入れている。なぜなら、どうしたことか、薫以外はあれを女だと信じきっているのだ。橘自身が双子なのだと吹聴したせいもあるだろうが、みんな目が節穴なのかと真剣に問いただてやりたいが、どうやら無駄に思えるので薫はただただひとりため息をこぼすぐらいしかできないでいた。

 初めてやつの女装を見てから三日と十時間経って、酒の勢いを借りてやっと、薫はやつに言葉をかける気持ちになった。
「なんで女装なんてするんだ?」
 周囲は各々喋ったり笑い合ったりしていて、相当に騒がしい。
「え? なんです?」
「だから! どうして女装をするんだって聞いてる」
「どうしてって……」
 少し考えるような顔をして、橘はにやりと笑った。

「代理はお嫌いですかー?」
「はあ?!」
 なんとなく、そんな風に切り返される予感はしていたが、薫はせいぜい馬鹿にしたような声を出してやった。
 少しずつ、橘という人間の人となりは掴んできた。一言で言えばふざけたやつだ。最大限良く言えば、何事も愉しんでやるような性格。薫が見たこともないポジティブ人間。仕事に関しては思っていた以上にやり手で切れ者。
 考え方も薫と似たところが多々あり、仕事だけならやりやすい。でも、あくまで仕事だけなら、という話だ。

「好きなわけがないだろう。女装なんて」
 そう言い捨てた時、異変が起こった。
 橘の瞳に、じわりじわりと涙が膨れ上がってきたのだ。
「な、なんで泣くんだ?」
 あたふたとそう尋ねても、橘はふいと顔を逸らして答えない。
 薫の内心は急激に焦り始めた。
 女に泣かれるのは、子どもに泣かれるのの次に苦手だ。
 この瞬間薫は、橘が男であるということをすっかり忘れていた。涙ぐむ橘は、実際可憐でもあった。

「わかった。もう責めないから泣くな」
 戸惑いながらそう口にすると、橘はちらりと上目遣いで窺ってくる。そういう表情ひとつとっても、橘は実に女性的だった。
「でも、気持ち悪いって思ってるんでしょう?」
 薫は言葉に詰まった。

「……やっぱり、気持ち悪いんだ」
 しゅんとされ、慌てて違うと言った薫のそれは、本心そのものだった。
 橘の女装は、なぜか気持ち悪いとは思えなかった。隠せないはずの高身長や骨格の男っぽさを、ほとんど意識させないのは彼の華やかさがそれに勝っているからだろうと思う。こう言うのは絶対に避けたいのだが、橘は綺麗だった。
 超をつけても過言じゃない美形の親友があり、薫自身の顔も謙遜するのが嫌味なほどには整っているから、正直美形は見慣れているのだが、それでも橘の顔立ちの華麗さは目を惹くものがある。
 特筆すべきは目で、クォーターなんです、と入社初日に彼自身が言っていたが、橘の瞳の色は日本人とは違い、濃い緑色をしていて、まるで深海のようだ。ややもすると飲み込まれてしまいそうだと、これも本人には口が裂けても言えないが、薫はそう思っていた。

「……気持ち、悪くはない」
 小声で言うと、橘がじっと見つめてくる。
「ただ、その……俺の常識からは、かけ離れすぎてて……」
「それなら、この後家まで送っていってくれますか?」
 なんでそうなるんだ? と余程喉まで出かけたが、言葉にできる雰囲気はなかった。
 まるで自分がか弱い女性を苛めているような、そんな気分にさせられていたのだ。
「……わかった。わかったから、泣くな」
 そう言うと、やっと橘が笑顔を見せた。その華のような笑みに、薫は心底ほっとした。

 どう考えても嵌められた、という感じはあったが、泣かれるのだけはごめんだから、薫としては安堵の気持ちで満ちていた。



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