Scene 6


「薫さんって、本当にフェミニストなんですね」
 タクシーを降りてマンションのエントランスに入った時、橘がぽつりと言った。
「それが、何だ?」
「いいえ、別に」
 いいえ、と言っておきながら橘の笑みには明らかに何か含みがあって、薫は心穏やかではなかった。もともと、こんなところまで無理やり送らされて、機嫌がいいわけはなく、エレベーターホールに着いた時点で、薫はさっさと踵を返そうとした。

「あの夜も、そうでしたね」
 半歩後ろに出かけていた足が、ぴたりと止まる。
「あの夜って……」
「ええ。金曜の夜です」
 ぎくりとしたまま強張った肩に、橘がそろりと手を伸ばして触れ、顔を覗き込んでくる。
「知りたいですか? あの夜のこと」
 挑発的な目で見つめられ、気づけば薫は頷いていた。

「それなら、部屋まで来てください」
 到着したエレベーターに乗り込んで、最上階へ向かう間ずっと、薫の迷いは消えず、知りたいのか知りたくないのか、また知りたいにしたって部屋に行くのはどうなのだろうか、とぐるぐる考え続けているうちに、扉がゆっくりと開いた。
 それにしても、どこもかしこも黒い。床は白のマーブルだが、それ以外はほとんどが黒で統一されている。暗くてよく見えなかったが、おそらく外観も黒の石が使われていたし、エントランスもエレベーターホールも廊下の壁も天井も全部黒。ついでにコンシェルジュの制服も黒だった。
 内装の材質は石材と木材を使い分けていて、アクセントとして所々に白とシルバーを配している。

 ふたりぶんの靴音を響かせて廊下を歩いて、これもまた黒のドアの前に立つ。
 部屋のなかも、想像通り黒で統一されていて、家具もほとんどが黒。度が過ぎるほどにモダンでスタイリッシュな部屋は、並の人間では確実に浮きそうだが、橘という人間にはよく似合っている。
 ただ、理解し難いのは大きすぎる窓だ。ほとんどガラス張りと言っていいほどの窓には全てシェードが降ろされているが、こんなところで生活できる神経がわからない。
 二十階からの眺めはさぞ恐ろしいものだろう。

 薫は実は高所恐怖症だった。だから、三十階という高層ビルの最上階にある自分のオフィスのブラインドは常に閉まっている。
 それを橘も承知しているから、部屋に入って真っ先にシェードを降ろしたのだ。
 橘はこういう気配りが行き届く男だ。まだ薫について一週間も経っていないのに、薫のクセをほとんど理解して、コーヒーの適温も心得ているし、さり気なく機嫌を窺って仕事を進めるのがうまい。
 確かに、仕事に関しては抜きん出て優秀だ。正直な話、今まで一緒に仕事してきた人間とは、明らかにレベルが違うとさえ思う。

「薫さんはワインがいいですか?」
 にこにこと訊いてくるその顔を見ていると、いやでもむかついてくる。
 会社に平気で女装してきたり、勝手に薫さんと呼んでみたり、まったく常識を外れすぎている。

「緊張してるんですか? 別にとって喰いやしませんから、掛けてくださいよ」
 ワイン一本とグラスを手に近づいてきた女装したままの男は、そう言って愉しそうに笑う。
「緊張なんかするか!」
 薫はそう言って、ソファに腰を下ろし、足を組みふんぞり返った。
 何より腹が立つのは、橘のいけ好かない態度だ。人を喰ったような物言いが嫌というほど神経に障る。

「そうですか? あんなことがあったんだから、少しぐらい緊張してもしかたないって思いますけど?」
 隣に腰掛けながら橘が意味ありげににやりと唇の端を上げた。
 薫は飛び退きたい気持ちを堪えて、平然を振舞ってとうとう切り出した。
「それで、あの夜何があったんだ?」
 平然ではなく憮然となった。
「本当に覚えてないんですねぇ?」
「覚えてないから訊いてるんだろう?」
 どうしたって声が尖る。

 落ち着け落ち着けと自分を宥めて、改めて問う。
「部屋に来れば教えるって言ってただろう?」
 どうも強く出れないのは、橘が女の格好をしているからに違いない。頭ではこれは男だとわかっているのに……これでは他の部下たちのこともあまり責められない。
「あの夜、バーで飲んでる薫さんの隣に座って、一緒に飲んだんです。薫さんはだいぶ酔ってらして、それでも女性の私に気を使って――」
「は!? ちょっと待て。お前、その時……あ――!」

 薫の脳が急激に回転を始めて、あの夜の始発点をはっきりと思い出した。
 あの晩、最後の記憶にあったあの女。よくよく思い出してみれば、あれこそ今目の前にいるのと同じ、橘朋聡の女装した姿だったのだ。
「女性だと思うと、あなたって本当に優しいというか、甘いんですね」
 橘は慣れた手つきでワインの栓を抜いて、二つのグラスに静かに注いだ。
 赤い液体をぼんやりと眺めながら、薫は悔しさと腹立たしさと、それと虚しさを感じていた。

「寂しいので、一緒に来てくれませんかって言ったら、あなたすぐに了解してくれて、でも下心があるわけじゃなさそうだから、こっちから襲っちゃおうと思って――」
「もういい! もう、だいたいわかった」
 薫は脱力していた。
 ようは騙されたのである。
 なんともやりきれない気持ちが心を埋め尽くして、薫はグラスに手を伸ばし、一気に赤ワインを飲み干した。
 薫だって人並みに女性は好きだし、女性に対しては常に優しくありたいし、それが橘のいうところのフェミニストなのだろうが、それの何がいけなかったというのだろうか?

「漬け込みやがって……」
 小さく漏らすと、橘が喉の奥でククと笑った。
「漬け込まれる弱みがあるのがいけないんですよ」
 飄々とそう言われて、薫は小さく唸ることしかできない。確かに、橘だけを責められるわけじゃない。だからこそ、ずっと落ち込んでいるのだ。
「でもあなたのそういうところ、俺は好きですよ」
 ついさっきまで、女らしい、と言うのも変だが、いくらか高い声で話していたくせに、急に低い声で橘が言った。
 薫は反射的に身構えた。

「薫さんの身体って、本当に正直なんですね」
 隣に座っていると言っても、別にぴったりくっついているわけじゃない。ある程度の距離はある。それなのに、橘の声は耳元で囁いているように、まるで鼓膜を舐め上げられてでもいるように響いてくる。
「か、帰る」
 これ以上何か言わせる前に、さっさと逃げなければならない。本能的に、薫はそう察知して立ち上がった。いや、立ち上がろうとした。

「帰らないでって言っても、ダメですか?」
 今度こそ本当に耳元で囁かれた。
 立ち上がろうとした瞬間腕を引っ張られ、何がどうなったのか、薫はソファの上に押し倒されていた。
 覆いかぶさってくる橘は、まだ女装をしたままなのに、なぜかもう完璧に男で、聞こえる声は甘さと熱さを含んで艶かしい。

 この声だ。この声がいけない。
 薫の脳裏に浮かんだのは、ギリシヤ神話に出てくるセイレーンの姿だった。美しい歌声で人を惑わす、海の怪物セイレーン。
 橘の声は、歌っていないというだけで、あれと同じだと思った。

「さっきの質問、答えてあげますよ」
「さ、さっきのって……?」
「どうして女装するかっていう質問ですよ」
 薫は無言だった。何も言えないのだ。
 一度意識し始めるともうダメで、橘の声がやけに耳に響き、鼓動さえもが早くなる。
 耳に入れてはいけないと思うのに、その声は容易に薫のなかに入ってくる。
「大抵の男は、女装をすると油断する。実際、あなたは今夜もここへ来た。危険だって、わかっているはずなのに」

 ねっとりとした熱が耳朶を這う。
 それが橘の舌だとわかった瞬間、薫は力任せに覆いかぶさる男の胸を押し退けた。
「確かに油断はしたが、どこまでも流されはしない!」
 胸を押され、床に尻餅をついた男は少しの間驚いた顔をしていたが、すぐに笑い出す。そんな男は放っておいて、薫は急いで立ち上がり玄関に向かった。
 そんな薫の背中に聞こえてきたのは、まだ続く男の笑い声と不適な言葉。

「薫さんって、本当に俺好みだなー」
 セイレーンは誘惑に失敗すると、ショックで自殺すると聞いた気がするのに、橘という男はまったくへこたれてはいないようだった。



前へ noveltop 次へ