Scene 8


 やっぱりタクシーで帰ればよかったと後悔したのは、叡凌と別れて間もなくのことだった。
 あんまりいい気分で酔っていたものだから、警戒心が弱まっていたらしい。

 面倒臭いことになったなー……
「半年振りかな? 朋がここへ来るの?」
 隣から訊かれて、朋聡はしかたなく、といった態度で目線をやった。すると上目遣いでこちらを見つめていた男が、恥ずかしそうに目を伏せる。
「久しぶりすぎて、ちょっと照れる」
 ああー、もう面倒臭いなー。

 ふらふらと帰り道を歩いていた朋聡は、ふいに呼び止められた。振り返ってみるとそこにはなんとなく見覚えのある小柄な男が立っていて、すぐには誰だか思い出せなかったが、相手はかなり興奮していて、十分だけでいいから一緒に飲んで、と哀願された。
 十分ぐらいならいいか、と上機嫌だった朋聡は承諾したのだが、店まで歩いているうちに酔いが醒めたのか、五分と経たないうちにうっとうしくなってきていた。
 面倒になったのは、酔いが醒めたからだけじゃなく、連れてこられた昔通った店に、他にも顔馴染みが何人かいたのも原因だった。

「ねえ、朋。アメリカからいつ帰ってきてたの?」
 今度は反対側から声がかかる。
 朋聡はローテーブルからウォッカの入ったグラスを取り上げ、ひと口煽って、
「最近」
 と、一言答えた。
 その声の低さで朋聡の気分を悟ったらしく、両端に座っていた男たちだけでなく、その隣の男も、少し離れた席で様子を窺っていた男たちさえも、身を強張らせて口を噤んだ。

 その様子を見て、朋聡の機嫌は少し上昇した。
 言葉ひとつ、態度ひとつで怯えちゃって。
 まるで、兎だ。ライオンに睨まれた兎のようだ。
 実際、ここにいる青年たちにはほとんど手を出した覚えがある。

 そもそも、ここはそういう、つまりゲイの集まる店で、朋聡は半年前までかなりの頻度で通っていた。
 最初は朋聡のほうが相手を探しに来ていたが、いつの間にか、みんなのほうが朋聡を探しに集まるような店になっていた。

「俺が怖い?」
 誰にともなく問う。
 返事はない。それが答えだ。
 可笑しくなって朋聡が小さく笑うと、場の緊張が少し和らぐ。
 それもまた可笑しい。

「二週間くらい前だよ、帰ってきたの。新しい仕事がね、決まったから」
 思いつきで前の会社を辞めて、思いつきでアメリカに渡った。とくに理由も目的もなかった。ただ飽きていたのだ。仕事も、プライベートも。リフレッシュしたかった。
 今の会社から声をかけられたのは、アメリカ滞在中だった。

「新しい仕事って、また社長秘書?」
「いや、今回は社長代理秘書」
 ふーん、とわかったようなわからないような返事が返ってくる。
 本当は朋聡の仕事なんかには興味がないのだ。

 興味があるのは、
「ねえ、朋聡。またさー、前みたいに……」
 右隣の男がおずおずと口を開けば、左隣の男が遠慮がちに朋聡の袖を掴む。
 彼らが何を主張したいのかは、聞かなくてもわかる。
「して欲しいんだ?」
 甘い声で尋ねてみれば、皆が皆瞳を期待に潤ませる。
 簡単なものだ。
 ……つまらない。

「血を流す覚悟があるなら、してあげてもいいよ?」
 意地悪に唇を歪ませて言ったら、期待に潤んでいた瞳に恐怖の影が宿る。
 朋聡は喉の奥でくくっと笑った。
「きつく縛り上げて、バイブレーターを突っ込んであげようか? 面倒臭いから、馴らすのはなしね」
 朋聡が笑いながらそう言っても、誰一人笑わない。冗談じゃないことはみんな知っている。
 このなかにも、それに近いことをした相手がいたかもしれない。

 性癖は正常じゃない。
 ただでさえ、男しか受け付けないという異常を抱えているのが、それだけじゃない。いたぶって、弄んで、本気で泣いている姿をみれば興奮するし、甘えられると蹴り飛ばしたくなる。
 震え上がる兎ちゃんたちの凍りついた表情や、怯えきった瞳を見ていると愉快な気分になってくる。
 だけど、それさえ今は大した刺激にはならない。
 おそらくさっきの言葉どおり、血が流れるほど痛めつけてみたところで退屈だろう。

 今の標的はこんなか弱い兎じゃない。
 あれは同じ肉食獣か、いや、あれは幻獣だ。例えるなら一角獣だ。美しく気高いあの生き物が、今朋聡を魅了する獲物なのだ。
 考えれば考えるほど、興奮する。
 もう自分を取り巻いている兎のことなど、一切目に入らない。
「俺、もう帰るね」
 グラスを置いて立ち上がる朋聡を、誰も呼び止めることはできなかった。

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